
今回は、端的に、どうして今、デモが必要なのかについて書きたいと思います。
大飯原子力発電所は国際原子力機関(IAEA)が定める5つの安全基準を3つしか満たしていません。例えば、免震施設、格納容器ベントフィルターなどの整備を待たずに再稼働するのです。避難計画の見直しやヨウ素剤の備蓄などもされておらず、福島県の事故を受けての対策がされているかも疑わしいと感じます。
つまり、事故以前と同じ理屈、安全対策を軽視して「過酷事故は起きないだろう」という前提の元で原子炉を動かすことに、これだけ多くのひとが怒っているわけです。これでは、安全に対するルールがあっても、政府が動かすといえば動くということ。「ルールはありません」と言っているようなものです。今までデモに参加しなかったひとまでが怒っているのには、そういう理由があります。
仮にも再稼働が必要であるならば、福島県で起きた事故の教訓を活かして、設備を整えた原発から再稼働すべきです。それについても、十分な検証と説明が必要だと思います。

多くの参加者が感じているのは、今反対しなければ、段階的な脱原発もありえないのではないかという危惧です。事故の検証、再処理の問題、放射性廃棄物の最終処分場の問題、それを今までどおりどこかにしまいこんで、「経済」だけを旗印に使用していくのであれば、単純に福島県で起きた事故をなかったことにして、それ以前に戻ることと同じです。また新しい「安全神話」が立ち上がるだけです。
右でも左でもなく、参加者の多くは、この国の将来を考えているのです。(ちなみに、ごく少数ですが、仮装してきてしまう変わったひともいます。)今、こんな大切なことがデタラメな手続きで行われていることについて、私たちが憤怒の念を示さなければ、全ては現状維持されてしまいます。そうやって、誰かが決めるのだと高みの見物と決め込んでいるうちに、こういう物言わぬ社会ができあがってしまったのです。
僕のまわりでは、被災地のことを思ってデモには参加せず、震災からずっと物資を運び続けていたひとたちも列に加わりはじめています。
煽りたいわけではありません。考えて欲しいと思っています。
The Future Timesの制作を通じて学んだこと、それは肉体性を軽視してはならないということです。意識の中だけでは、社会は変わりません。町に出ることです。フィールドワークすることです。足を使い、身体を使うことはとても大切です。意見の表明の場合も同じです。1万人のインターネット署名とデモでは、情報の立体性と具体性の濃度に差があります。一人ひとりの行為の貴賎ではなくて、それを感じる側の受け取り方としての話です。
何を目的として、何を行うかはひとそれぞれでしょう。それでも、法を破らずに行われる意見の主張が、当たり前の世の中になることを願います。そして、望みます。もちろん、デモに対する反対意見もあって然るべきだと思います。
ただし、現在の僕には、ここで押し黙る理由が見当たりません。
