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「郷里を取り戻すために」川内村・遠藤雄幸村長インタビュー

その全域が福島第一原発の30km圏内に含まれる、福島県双葉郡川内村。一度は全村避難を強いられたこの山あいの村に、いま少しずつ住人が戻りはじめている。
〝戻れる人から戻ってきてほしい〟という、世界でも希な『帰村宣言』は、優しさと厳しさをたたえて、私たちに生まれ育った場所の持つ意味を問いかける――。

取材:佐田尾宏樹・後藤正文/構成:佐田尾宏樹/撮影:大槻志穂

全体避難の意味と重み

—今日は、あらためて2011年3月11日からこれまでのことを、順を追ってお聞きできればと思います

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遠藤「わかりました。まず、地震が起きてすぐ、もう11日の深夜からですね、隣の富岡町から川内村に避難してこられる方がいたんですよ。公共施設の駐車場に自家用車なんかでどんどん移動してこられて。富岡町長から正式に避難の申し入れがあったのは、20km圏内の住民に避難指示が出た12日の早朝なんですけど、それに先駆けて自分たちで原発に関する情報を入手した町民たちが自主的に避難してきてたっていう状況ですよね。富岡町には原発の構内で仕事をされている方も多くいらっしゃいましたから。川内村役場の方で把握できていたのは、6000人ちょっとですね」

—川内村の人口は当時約3000人なので、倍以上の方が避難されてきていたと。

遠藤「そういうことになりますね。正式な申し入れがあってからはバスに乗って大勢で避難されてくる方もいましたし、把握できないところで、親戚や知人を頼って個人で移られた方もいたでしょう。最終的には8000人くらいになってたんじゃないかと思います。あとで富岡町長から聞いた話では、地震があった直後に近所の集会所に避難して、そのまま二度と家に戻ることなく川内に移ってこられた方も多くいたみたいで……。しばらくは富岡町民を受け入れながら、炊き出しのサポートをしたり、支援物資の搬入搬出をやったりという作業に翻弄されていた感じですね」

—3月12日、福島第一原発1号機が水素爆発を起こした時のことは、記憶にありますか?

遠藤「爆発の瞬間はテレビのモニターで見てました。富岡町の役場の職員もまわりにいっぱいいましたけど、一瞬、全員が声を失って、静かになりましたよね。それほど、信じられない映像でした。………それでもね、 なんていうんでしょうねぇ……………1号機が爆発した時点では、なんとかなるかなって気持ちがあったんですよ。でも、3号機のシーンを見たら、もう正直、逃げよう、避難させようっていう方向に気持ちが動いていきましたね」

—3号機が爆発したのは、3月14日のことでした。

遠藤「13日頃から電話が通じなくなって、ガソリンなんかの燃料もなくなってきましてね。情報の入手や伝達にかなりストレスを感じるような状況になってきてたんです。それで3号機の爆発のあと、結果的に訂正になりましたけど、“2号機と4号機も爆発した”みたいなね、そういう情報も流れまして。“なぜ定期検査中で運転していないはずの4号機が爆発するんだ!?” って思うじゃないですか。そのほかに5号機も6号機もあるわけです。…………これはもう村にはいられないだろうなって、覚悟しました」

—翌日の3月15日には、20km〜30km圏内に屋内退避指示が出ましたが、これはどう受け止められましたか?

遠藤「枝野幸男経済産業大臣(当時)の会見の様子がテレビで流れましたけど、屋内退避って現実的な対応なのかなと思いましたよね。それで、唯一まだ通じていた衛星電話を使って国の防災センターに確認したんです。“保安院の指示のとおり、20km〜30km圏内は屋内退避で安全が確保される”っていう話だったんだけど、でもね、屋内退避といってもいつまで続ければいいのか、その間の水や食事はどうするのかっていう疑問がどんどんわいてくるわけですよ。とても非現実的な対応だなって、その時に改めて感じて。これはひょっとして僕が想像している以上に、状況はもっと悪いんじゃないかなって思わざるをえなかった。それで、15日の夕方には村の防災無線を使って自主的な避難を呼びかけました」

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—自主避難ということは、具体的な避難方法や避難先が村長から示されるわけではないということですよね。

遠藤「ないんですよ、全然。目的地を指示しないで、ただ逃げてほしいってアナウンスしたんですよね。多くの住民はそれぞれ車を持っていましたし、村外に頼るべき親戚や知人がいるだろうっていうのはありましたけど、当然、中には避難できない住民もいたんですよね。高齢者とか、どうしても在宅で介護が必要な方とか。もちろん、自分が生まれた家を離れるわけにはいかないっていう人もいらっしゃいましたよね」

—すぐに気持ちの整理がつく話ではないですよね。情報も錯綜していただろうし。

遠藤「実際、僕がアナウンスをする前から、自主的に村外へ避難を始めた人もいました。富岡町の方と同じように原発の構内で働いている人から、自分の家族や親戚に連絡が入ってたんですよ。“危ない、もう逃げろ”って。現場の情報が僕らの頭上を飛び交ってたわけです。当然、国の発表を鵜呑みにはできないって多くの人が感じていたわけで、どっちの情報が説得力あるかといったら、それは現場でしょう。ただまぁ、大部分は僕の自主避難のアナウンスに合わせて避難していったので、その様子を確認しながら、村の対策本部のメンバー、富岡町長とも相談して、最終的な全村避難を決めました」

—日が変わった直後、3月16日未明のことになりますね。

遠藤「それでね、夜が明けてすぐ、16日の午前7時に防災無線でアナウンスをしました。積極的に逃げてほしいと。自分で逃げられない人、車がなくて移動できない人は、近くの集会所に集まってくれたらバスで迎えに行くからって。村には25人乗りと40人乗りのマイクロバスが9台あったんで、それを総動員して集会所を回って。実はね、その時点ではまだ目的地が決まってないんですよ。最初のバスが出発してから、取りあえず郡山市のビッグパレット(※1)に向かってくれって。駐車場が広くて魅力的な施設だったんですよ。館長が知り合いだったというのもある。その後、ビッグパレットに連絡をして、川内村の住民が避難したから迎え入れてほしいとお願いしました。実はビッグパレット自体も地震の影響で傷んでたんですけど、快く受け入れていただけて。ありがたかったですねぇ」

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—村長の判断はかなり早かったと思います。国が30km圏内の人に自主避難の呼びかけをしたのは3月25日だったんですけれど、それでは遅すぎるというか……。

遠藤「遅いですよね」

—それに、国は「呼びかけ」という言葉を選ぶことによって、どこかうやむやにする意図もあったのではないかと思ったんですよね。「避難指示」とか「避難勧告」だったら最終的に国に責任があると思うのですが、まったく意味合いの違う表現なので……。

遠藤「全村避難に至るまで、国からの指示は一度もありませんでした。情報源っていうのはほとんどテレビしかないような状況で、何もわからないまますべての判断していく必要がありましたから……もうね、たまらないなって。実はね、全村避難はまさにここ(取材をさせていただいた川内村役場の村長室)で決めたんですよ。それで、決断してすぐにね、避難した後にどんな不都合が生じるのかっていう、現実的なことを考えました。たとえば役場には住民たちの情報が集約されてますから、役場機能がなくなれば混乱は避けられないし、もし個人情報が不法に流出してしまったらどうするのか、もし留守にしているあいだに盗難があったりした場合は誰が責任を持つのか……いろんなことが頭をよぎりました。その時の記憶がよみがえってくると…………やはりしびれますね。結局、全村避難っていうのは、自分たちの家や村での生活、すべてを残したまま逃げていくわけですから」

—最終的に、村長が村を離れられたのは……。

遠藤「16日の夜9時頃ですね。雪が降ってました。しばらく村に戻るのは無理だろうな、向こう5年くらいは難しいかもしれないって、郡山に向かう最後のバスの中で漠然と思ってましたね。5年で何がどう解決するっていう計算があったわけじゃなくて、それぐらい長い期間戻れないんじゃないのかなっていう思いがありました」

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(※1)ビッグパレット

郡山市にある、展示ホールや会議場などを備えた複合施設。震災後、川内村や富岡町から避難した住民を受け入れ、一時は約2500人が暮らす県内最大の避難所となった