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災害を記憶するために(2)〜妖怪伝承と民俗学の可能性〜

災害への恐れ、死者への弔い、被災体験を残そうという意識。
古来から人々は記録や記念碑を残すほかに、災害の記憶を口承として伝えてきた。「妖怪伝承」もその1つ。水害が起こる地域に伝わる河童、津波の前兆として現われる白鬚爺。それらはなぜ生まれたのか? そして、各地に残るフォークロアを研究対象とする「民俗学」が私たちに問いかける、これからの災害伝承のあり方とは――

取材:神吉弘邦 / 構成:佐田尾宏樹 / 撮影:高橋定敬 / イラスト:タカヤママキコ

〝石碑〟と〝口碑〟

後藤「特に震災以降ですけど、畑中さんが専門にされている民俗学や民間伝承というものにすごく興味があるんです。この先、僕たちが震災を語り継いでいく上でヒントになるものが必ずあるはずだという直感があって、是非、お話をうかがえたらと思いました」

畑中「そうですか。今日はよろしくお願いします」

──そもそも畑中さんが民俗学に興味を持たれたきっかけは何だったんですか?

畑中「そうですね、僕は大阪の生まれなんですけど、大阪や京都あたりは小学校の5〜6年ぐらいから必ずクラスに3、4人は仏像好きっていうのがいたんです。神社仏閣を巡ったり、古本屋でマニアックな仏像の本を取り寄せて読んでるような連中なんですけど、実は僕もそのうちのひとりで。週末になると、大阪のド真ん中から電車に乗って田舎まで、マニアたちにとってのいわゆる聖地みたいな場所を訪ねて歩くっていうことを続けてたんですよ。その流れで歴史書や民俗学の本もよく読むようになって、柳田国男とも中学の割と早い時期に出会いました」

──柳田国男という人をちょっと説明しておくと、東北の文化や民間伝承をテーマにした『遠野物語』や『雪国の春』といった著書のある、日本民俗学の第一人者ですね。

畑中「それでね、柳田の本を読んでいると〝歴史〟っていうものを捉えるときの視点が面白いなって思ったんです。いわゆる歴史っていうと、何年何月に何が起こったとか、武将や貴族が何を成し遂げたとか、年号と出来事がセットになった客観的な事実みたいなものをイメージするでしょう? まあ、例えば仏像の世界にも鎌倉彫刻とか室町彫刻みたいな歴史的な区分があるんだけど、僕はその仏像の歴史や造形そのものよりも、仏像をどんな人たちがどういうふうに信仰してきたのか、何を求めて田舎道を歩いたりわざわざ山を登ったりしてたのかっていう、文字に書かれない歴史というか、日本人の精神性みたいなものに対する興味があって。そのあたりの関心を掘り下げていく視点を一貫して持っているのが、民俗学というジャンルだったんですよね。柳田は〝歴史〟っていうのはすべてのことが記録されているように思われてるかもしれないけど、庶民の生活事情だとか感情の動きみたいなものについては案外真っ暗で、〝歴史〟とは意外とあてにならないものだっていうような意味のことを著書でも言ってますけどね」

後藤「それ、すごく共感します。僕も、たとえば戦争ひとつとっても、教科書に載っているような年号と出来事の羅列だけではなくて、いち兵士の思いが綴られた手記を読んだほうが、その戦争の歴史に迫れるような気がしているんですよね」

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畑中「それはあると思いますね。でね、柳田は東京大学を出たあと、官吏や新聞の論説委員をしながら『遠野物語』や『雪国の春』といった本を書いたんだけど、直接的なきっかけになった出来事っていうのが関東大震災なんですね。国連の委員をしていたときに、ロンドンで各国の外交官との会合があって、そのうちの一人が「あれは天罰だ」と言ったと。大正デモクラシーの頃って、政治的な運動と並行してある種の都市風俗が非常に盛り上がっていたので、それに対して天罰が下ったんだと言ったんでしょう。その発言に柳田はすごく憤ったわけです。当時の柳田は本所深川という、東京の中で最も貧しい、発展途上の日本の輝きを陰で支えてる人たちが多く暮らす町に住んでいたんです。もともと柳田は農業の専門家で、発展途上の日本を陰から支えている人たちに強い共感を抱いていました。だから、本所深川という東京の中で最も貧しい人々が多く暮らす町の被害に、胸を痛めていたんです。それもあって、どうして彼らに天罰が下らなきゃいけないのかと怒った。で、帰国する時に、柳田は自分の学問を本格的に始めなきゃいけないというふうに決意するわけです。つまりね、災害の時に最も甚大な被害を受けるのは一般の庶民たちであって、彼らの暮らしぶりや感情といったものを書き留めることが、災害から何を教訓として学んで、どうやって備えるべきかといったことにつながるんじゃないかと。それが柳田民俗学の始まりですよね」

──原点には〝災害と庶民の生活〟というテーマがあったと。

畑中「そういうことです。それで、たびたび地震や津波、飢饉や大水といった災害に襲われて被害を受ける東北っていう土地を舞台にフィールドワークを進めていくことになるんですね。たとえば大正8年に、たびたび津波被害に襲われてきた唐桑半島(現・気仙沼市)を訪れたときの様子を『二十五箇年後』というエッセイに綴っているんだけど、そこにはこんなことが書いてある。明治三陸地震(明治29年)のときの津波被害によって多数の犠牲を出したにもかかわらず、地震から25年たらずで、集落の人々はその記憶を忘れてしまっているようだと」

──残念ながら、東日本大震災でも唐桑半島では多くの死者や行方不明者が出ました。

畑中「それは東北の漁業と高台移転の問題とも関わってくると思うんです。柳田の弟子、山口弥一郎という人が『津浪と村』っていう本にも書いていますけど、やはり漁業を生業とする人は、一度高台に移転しても海沿いに住むほうが便利だということで下りて来ると。あるいは、東北には豊かな漁場を求めてよそから移住して来たという人も非常に多いんですね。すると、「よそ者に漁場を獲られてなるものか」って、高台に移住した人もまた再び下りてくると。東北の海沿いの町では、そういったケースが繰り返し起こっているんだそうです」

後藤「僕も何冊か漁村と高台移転について触れた本を読んだんですが、40年とか50年起きに歴史が繰り返されているんですよね」

昭和三陸地震(1933年)の翌年に建立された陸前高田市広田町の石碑。「(ここより)低いところに住家を建てるな」「津浪(波)と聞いたら慾(欲)捨て逃げろ」などの文字が刻まれている。

畑中「唐桑半島・宿浦には〝地震があったら 津波に用心〟という石碑も建っているんですが、結果的に東日本大震災でも効果がなかったと。キネンヒには〝記念碑〟と〝祈念碑〟のふたつがありますけど、やはりどちらの碑も日常の中にあるとだんだん既知の風景になって、通り過ぎてしまうようになるんです。それに対して、民俗学には〝コウヒ〟という言葉があるんですよ」

後藤「コウヒ、ですか?」

畑中「民俗学では民間伝承のことを〝口碑〟と呼ぶんです。口伝えの碑、ですね。石碑を建てるのもひとつの方法だけど、こっちは口頭で伝承していく方法ですね。子供に対して「津波が起こったら、あの高台に逃げなさい」というような教訓を、過去の災害を物語にして語り継ぐやり方は、日本では一般的に行われてきてるんですよ。その際、民話的な物語にすれば、単に教訓や格言にするより、もっとイメージしやすい形で伝えていけるし、物語が長い年月をかけて少しずつ少しずつ、それ自体が文化になって残っていくのではないかというのが、民俗学の考え方なんです」

──すると〝妖怪伝承〟っていうのも口碑の一種だということでしょうか。

畑中「そういうことですね」

──例えば、津波に関係する妖怪っていうのも存在するんですか?

畑中「そうですね。津波に関わるものでいったら〝白髭水〟と呼ばれる妖怪がいますね。〝地震の後に海の向こうから白い髭をたくわえた、もしくは白い髪の翁が波に乗ってやって来る〟っていうような語り伝えで、〝地震の後に遠くから高い波が押し寄せてくるのを注意して見ておかなければいけない〟という意味の教訓として庶民には共有されてきましたね」

後藤「その〝白髭水〟の教訓って、テレビの速報とか津波警報で示されるようなものとはまた別の質感を持った警告ですよね」

畑中「確かに、テレビの〝何メートルの津波が何分後に来る〟っていう情報は、押し寄せてくる波を数値化したものに過ぎないですからね。それに実際、市街地に水が入り込んだらどれくらいの高さになるとかいった詳細までは示されない。その点、白髭水の伝承っていうのは、実際に起こっていることを目視して、〝遠くから高い波が迫っていたらすぐに逃げろ〟と伝えているっていう意味では、より具体的とも言えるんじゃないかな」

後藤「そうですね。現代って手触りがないですよね、情報自体に。東日本大震災でいえば、妖怪への感覚のような、人間の五感や六感をどこかに預けてきたぶん、被害が広がった側面もあるのかなと想像します」

畑中「それはあるかもしれないよね。これは妖怪伝承がなぜ生まれたかっていう話にも関わってくるんだけど、東日本大震災の後、理工学系の学者の災害研究だったり、社会学者や歴史学者の数値的なデータにもとづいた分析を目にする機会が多かったんですね。でもその一方で、悲惨な状況を前にした人々の感情をつぶさに記述したり語ったりするようなものがあまり見受けられなかったんです。新聞やテレビにしても、きれいごとっていう言い方はよくないけど、〝絆〟とか〝亡くなった人のぶんまで頑張ろう〟みたいな大きな物語に集約して報じられるものをよく見かけたでしょう?」

──確かに。震災直後、被災者から「津波で亡くなった方の幽霊を見た」とか「お化けが海の上を歩いているのを見た」といった体験談とか情報が新聞社などに多く寄せられたりしたそうですけど、そういったことが大々的に報じられることもなかったですよね。

畑中「僕はね、それによってこぼれ落ちてしまうものがあるんじゃないかと思うんです。実際に東北では今でも被災者を相手に〝傾聴活動〟というのを続けているお坊さんがいるんですよ。お腹の中にわだかまっている想いをうまく出させてあげるっていうね。でもね、被災したみなさんがそれぞれ何を胸のうちに抱えているのかっていう……僕は当事者ではないので想像することしかできませんけど、自分や家族が生き延びられたことに胸をなで下ろすと同時に、安堵それ自体に後ろめたさを感じている方もいるかもしれない。あるいは、後悔の念ですよね。〝自分は逃げおおせた。でもあの人のことを助けられなかった〟っていう、何とも言えない苦しい思いを抱いて生きている方もいらっしゃるのではないかと想像するんです。これは僕の仮説ですけど、そういった何ともいえない想い、言葉にできない悲しみとか悔しさとか後ろめたさ、モヤモヤしたある種のまがまがしい感情っていうものを、神とか仏とかではない存在に置き換えたのが妖怪なんじゃないかっていうふうに考えてるんです。つまり、妖怪っていうのは〝人間の心の現われ〟なんじゃないかと」

──なるほど。でもなぜ人間の言葉にできない想いを仮託するのが、河童や天狗のような存在である必要があったんですかね?

畑中「まあ普通に考えたら不思議ですよね。でもね、たとえば河童であれば、みなさん、水木しげるさんが『河童の三平』で描かれてるような、身体は緑色をしていて、頭のてっぺんにお皿が乗っていて、手には水かきが付いている……というようなハッキリした姿を思い浮かべるでしょ? でも、民俗学における河童っていうのは、そんな絵に描けるような存在ではないんですよ。もうちょっと捉えどころがない、抽象的な、水に関わるまがまがしいものとして描かれています。『遠野物語』に出てくる河童は、足を引っ張って水に引きずり込むような存在ですから」

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後藤「確かに、ちょっとイメージと違いますね」

畑中「僕の考えでは、過去に何度も起こった水害で〝育てたかったのに、生かすことができなかった命〟に対して向けられた、なんとも言いがたい想いから生まれたのが河童という妖怪なんですよ。形はないし、多様でつかめないんだけど、なぜか質感というかリアリティだけはすごくある。これが民俗学における妖怪の特徴ですよね」

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畑中章宏

畑中章宏(はたなか・あきひろ)

1962年生まれ。著述家・編集者。多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。日本大学芸術学部写真学科講師。著書に『津波と観音』『ごん狐はなぜ撃ち殺されたのか――新美南吉の小さな世界』『日本の神様』など。柳田国男の妖怪伝承に関するフィールドワークや、『遠野物語』『北国の春』をはじめとした民俗学的な史料に興味をもった人向けに『柳田国男と今和次郎 災害に向き合う民俗学』も。

災害と妖怪〜柳田国男と歩く日本の天変地異
災害と妖怪
〜柳田国男と歩く日本の天変地異

なぜ日本では地震や津波、飢饉や干ばつなどの災害の記憶を、河童や天狗、海坊主、ダイダラ坊といったおどろおどろしい妖怪のイメージと結びつけて語り継いできたのか?民俗学者・柳田国男の『遠野物語』『妖怪談義』といった文献をひも解きながら、遠野(岩手)、志木(埼玉)、辻川(兵庫)、代田(東京)などを歩き、各地に残る“災害伝承”、そして災害に向き合う日本人の心のありようを明らかにする。