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未来について話そう

編集長通信 5/6


 2012年の5月5日、北海道電力の泊原子力発電所3号機が定期検査に入り、国内に50基ある原子炉は全て停止した状態になりました。この事実を喜ぶべきかどうかは難しいところだと思います。けれども、この初夏の時点においては、原子力発電所が一基も稼働していなくとも、私たちの生活が成り立っていることだけは事実となりました。ただし、燃料の調達費など、電力会社が抱えている当座のコスト問題は度外視してのことですが。もっとも、原子力発電を維持した場合の、廃炉や放射性廃棄物の処理に関するコストの問題も、ずっと無視されてきたのですけれど。


501.jpg 4月の29日、私は『TWIT NO NUKES』というデモに参加しました。このデモはツイッターで集まった個人の有志たちで運営されています。つまり、特定の団体が営利目的でやっているわけではないということ。誰でも参加できるデモ活動で、「特定の政治的スタンスに依ることなく、反原発/脱原発をのみを唯一のポリシーとして」と、彼らの告知用のブログにも明記されています。

 当日は1000人以上のひとが参加し、渋谷の宮下公園から渋谷区役所を回って公園通りを下り、井の頭通りから宇田川町を経由して109の前を通過、スクランブル交差点を渡り、そのまま表参道駅まで直進、表参道を神宮前交差点まで進み、明治通りを原宿から渋谷へ向けて戻ってくるというルートで、このデモは開催されました。

504.jpg 恥ずかしながら、デモ行進に参加するのは初めてでした。3月11日に日比谷で行われた東日本大震災の追悼イベントの後、少しだけ脱原発デモと並走するように歩いたことはありましたが、最初から最後まで参加するという経験はありませんでした。この日も、ライブのリハーサルの後、本番までの時間を使って参加したので、出発の時間には間に合わなかったのですが、公園通りを下るところでデモの最前付近のグループに混じることができました。

 デモを外側から観るのと、実際に参加するのでは随分違いました。何が違うかというと、ゴールデンウィークで人出の多い渋谷/原宿ということもあってか、明らかに好奇の的になっていることを感じたのです。私は異物として見られているということを、多少、自意識過剰なバイアスがあるにせよ、感じずにはいられませんでした。


 もちろん、沿道から「頑張って」声をかけてくれるひとたちも、手を振ってくれるひとたちもありました。ですが、ほとんどのひとは「変なひとたち」としてデモの参加者を眺めているのではないか、そういう意識が渋谷駅前のスクランブル交差点を抜けるあたりまで消えませんでした。初めての参加であることが原因なのかもしれません。だけれど、ここまでの異物感を自分(たち)に感じることは今までなかったように思います。

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 スクランブル交差点を抜けると、少しずつ気が楽になりました。街の雰囲気が変わったというところが影響していたのかもしれません。もしくは、単純に私が慣れたのかもしれない。いずれにせよ、そこから表参道まではそれほど好奇な対象としての視線を感じませんでした。ただ、明治神宮前の交差点では渋谷と同じような視線を感じました。なぜなのかは分かりません。そこから渋谷に戻る明治通りでは、もっとクールな、静観以下の、無視にも近いような雰囲気を感じました。ファッションの街からすれば、格好の悪い行為に映るのでしょうか。もちろん、これも私の自意識とバイアスによるものかもしれないのですが。

 「環境に悪いから自転車で通勤しろ」というような主張を掲げたデモに、数万人も集まるような国も世界にはあります。すべてをよその国と比較して自虐的になるつもりは毛頭ないけれど、申請をすれば行える、権利として認められた行為であるデモがどちらかというと変わった行為とされてしまうのは、どういうことなのだろうかと思います。

 原子力発電を継続していくのか、現状での再稼働は本当に緊急事態に対応できる設備を見直してのものなのか、直近のエネルギーの供給は大丈夫なのか、放射能の危険性をどいう捉えているのか(この問題は最も意見が別れるところでしょう)、いろいろな論点があるのだから、いろいろな意見もあるでしょう。デモをしている側も、「脱原発/反原発」という同じ方向性を持っているとしても、全てにおいて一枚岩のような同じ意見というわけではないと思います。いや、それでこそなのだと思います。ひとつ、だけであることは怖いことです。それは歴史が語っています。

 ただ、ここに集まったひとたちは営利を目的としていません(主催の有志たちはこの点にとても注意を払っているように感じました)。特に利益らしきものが自分に直接返ってくることを期待もせず、それを分かったうえで、ゴールデンウィークの休日をこのような行為に捧げています。悪意ではなくて、「社会を良くしたい」という言葉に近い善意を持ち寄っています。この行為に浴びせる辛辣な言葉を私は知りません。エゴイスティックな行為ならば、一銭にもならず、ヒーローにもなれず、目立ったニュースにもならない(されない)場所では行われないと私は思うのです。

 「お祭り騒ぎ」だと揶揄するひとがいるなら、こう反論したいです。お祭りならもっと楽しいものが現代には山ほどあります。

 『The Future Times』は「歩かないデモ」を標榜してスタートしました。現在は、デモの最たるかたちである「デモ行進」について考えています。一般的な権利を使って、それぞれの考え方の違いはあるにせよ、社会のために何らかの意見を発信することが特異な活動になってしまう風潮は、かなり行き過ぎていると私は思います。

 デモ行進も含めて、市民が意見を主張したり話し合ったりすることが、もっと開かれていくことを願います。

 参加しないことや主張しないことが、面倒を回避するもっとも便利なツールとして無意識的にも意識的にも選択されてきたことが、この狭い島国に建設された50基(プラス福島の4基)の原子炉の問題にも繋がっているように私は感じます。ひとつの象徴のように思えます。

 肉体性を持って参加することには、とても意義があると改めて感じました。

 皆さんは、デモについて、原子力発電の問題について、どう考えていますか?


2012年05月06日

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