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東北から“50年後の日本”を描く | 対談:赤坂憲雄×後藤正文

東北の未来図は日本の未来図である

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赤坂「僕はね、震災が起こったことによって、間違いなくひとつ言えることがあると思うんです。それは、隠されていた問題がむき出しになったのと同時に、そこで起こっていることがおそらく、われわれの未来図なんだということです」

後藤「そうですね」

赤坂「たとえば三陸で、まるでフィルムの早回しのように起こりつつあること。震災の前から、東北の人口は40年か50年後には半分くらいになると言われていたんです。ところが、震災の後には、その未来予想図が〝今・ここ〟に手繰り寄せられてしまった。でも、それって東北だけの話じゃないんですよ」

後藤「日本全体に当てはまると」

赤坂「あくまで東北が先にその状況にたどり着いてしまったという話であってね。50年後には人口8千万人、その45%が高齢者という日本列島、日本社会がやってくる。復興構想会議で、建築家の安藤忠雄(※8)さんも委員だったんですが、繰り返し言われていたことがあります。『われわれは、30年後、50年後の日本を頭に思い浮かべながら、〝今・ここ〟で何をなすべきか、どのような復興のシナリオを作るべきかを考えなくてはいけない』。この言葉は深く心に残りました。今も僕がものを考えるとき必ず聞こえてくる問いかけです。30年後、50年後の日本はどうなっているのか? それを考えるとね、僕には復旧、復興と称して海沿いに巨大な防潮堤を作るのは、とんでもない計画だとしか思えない。だって、今ある海岸線っていうのは人口1億3千万人のマックスに合わせてつくられたラインなんですよ」

後藤「つまり、人口が増加したのに合わせて海を埋め立てて、内陸から人がそこに移り住んできたわけですよね」

赤坂「そういうことです。僕の教え子の実家が野蒜にあって。家を完全に流されてしまったんですが、お母さんと流された家のそばまで行ったら、〝ここは今から60年くらい前までは海だったのよ〟とおっしゃる。そんなふうに、ついこの前まで海だった場所に人間たちが田んぼを開き、家を建て、町を作っていた、そこがすべて津波によって洗い流されていた。そんな光景をたくさん見ましたね」

後藤「すごく象徴的ですね」

赤坂「日本の人口は明治維新当時の3千万人から、1億3千万人にまでふくれあがった。もちろん、増えた人々を食わしていかなければいけない。だから隙間を見つけたら海だって山だって開墾して田んぼを作って、それでも足りないからと植民地を朝鮮半島や満州に作って、移民させたりしてきたわけですよね。急激に膨張していく人口をどうやって食わせるかっていうのは、国家にとって最大の課題だったと思うんです。結果的に海へ海へとせり出し、海岸線をコンクリートで固めて造った街が全部流されてしまったことを、僕は失策だったと非難する気にはなれません。でも流された現場に立って、30年後、50年後の日本というものを思い浮かべた時に、その海岸線をさらに巨大なコンクリートの防潮堤で守るっていう発想が、全然リアリティを感じさせないんですよ。だって人口は半分なんですよ? その半分が高齢者なんですよ?」

後藤「あらかじめ、津波が届かない高台で暮らしていく方法を考えるほうが、リアリティがあると思えますね」

赤坂「同感です。もうひとつ象徴的な話をしましょう。震災から1カ月後、南相馬のあたりを歩いていたら、一面に泥の海が広がっていた場所があったんです。案内してくれた方に〝元々ここはなんだったの?〟と尋ねてみたら、水田だったという。明治30年代以降に開墾された土地なんです。それ以前は漁業や塩田が行われたり、風光明媚な浦として暮らしが営まれていた。新しい海岸線が作られ、浦から海水を排水施設を造って排出して、塩抜きをして水田にした。福島から宮城南部を歩いていると、破壊された排水施設がいたる所にありました。つまりね、今ある海岸線はほとんど心臓のペースメーカーみたいな排水施設によって、かろうじて維持されていた、かりそめの境界だったんですね」

後藤「なるほど」

赤坂「この泥の海をどのように復旧、復興させていくのか? おそらく、大規模な公共事業を起こして、もう一度元の田んぼに戻そうっていう計画が出てくるのだろうと思います。でも、もはや高齢化が進んで耕す人がいなくなろうとしている、という現実こそが向かい合うべきものなのです。今、東北の各地で10メートル規模の巨大な防潮堤を作ろうとしてるでしょ?」

後藤「そうですね。僕が取材で行った陸前高田でもそんな計画が持ち上がっているという話を聞きました」

赤坂「そこで暮らしている人たち、特に漁業や観光で生計を立てている人たちは、巨大な堤防を造ったら生活が成り立たなくなるんですよ。だから、地域によっては反対している住民が少なからずいる。でも露骨に反対すると生きていけないから、声は小さい。〝そんなもの必要ない〟ってほとんどの人が思っていても、目先の利害が公共事業を手繰り寄せ、思考を麻痺させる」

後藤「そもそも30メートルの津波が来た場所だってあるのに、仮に10メートルの防潮堤を造ったところで……」

赤坂「そう、防潮堤を作っても津波がそれを乗り越えてくる可能性は高いのです。それがわかっていて、なぜ復興と称して巨大な防潮堤を造るのか。今、被災地を歩いていて眼に入ってくるのはコンクリートばかり。公共事業だらけなんですよ。コンクリートのインフラ整備に大量のお金が流れている。結局、大手ゼネコンや大企業が復興予算としてつぎ込まれたお金を、そのまま東京に回収していくシステムの中ですべてが動いている。ハウスメーカーや、除染に関わるゼネコン、巨大な防潮堤を作る建設会社、それぞれがみんな同じ構造の中で、被災地をむさぼっているように僕には見えます」

後藤「僕も何度か行きましたけど、そういう印象は拭えなかったですね」

赤坂「それが復興の生々しい現場です。もっと言うとね、復興のプロジェクトは元の風景や元の生業を回復するために、たとえば農地を農地に戻す目的であれば予算が大量に入る仕組みになっているんです。でも、その農地を別の用途に転換して、地域の住民たちが〝自分たちの将来を見据えたデザインをしたい〟と言った場合には、まったく認められない」

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潟に戻った南相馬市の井田川浦(撮影:赤坂憲雄)

後藤「おかしいですね」

赤坂「仮に排水施設を整えて、塩抜きの作業をして、降り注いだ放射性物質を除去して元の水田に戻すとしたら、5年か10年はかかるでしょう。そこで農家の方に〝さあ耕してください〟と言ったところで、絶対に立ち行きませんよ。なぜって、農家の方は現時点で平均年齢が70代半ばだと聞いています。ただでさえ後継者がいない、〝この田んぼは自分の代で終わりだ〟って話していたんです。10 年待ったら80 代ですよ。水田を維持することなんかできませんよ。耕す人がいなくなるのに水田に復旧するなんて馬鹿げてる。だから僕は言ったんです、〝潟に戻してやればいい〟って。顰蹙(ひんしゅく)を買いましたけどね」

後藤「うーん、僕は見当外れな指摘だとは思わないのですが」

赤坂「だからね、今の海岸線を自明にみなすのではなくて、これから急激に人口が減少してゆく、やがて人口8千万人の日本列島になることを思い浮かべたとき、海岸線をコンクリートで固めて維持することからリアリティが失われている現実をきちんと引き受けねばならないと思う。そこを潟に戻して、景観を明治初めあたりのかつての風景に返していく。そして僕はね、そこで風力発電をやればいいと思ったんです」

後藤「そうか……」

赤坂「風力のファームを作り、田んぼを所有していた人たちが経済的にきちんと恩恵を受けられるかたちで、風景を回復させていく。そういう、自然エネルギー、再生可能エネルギーと関連づけたプロジェクトがあってもいいんじゃないかって提案をしたんですが、批判をたくさん受けました。実際、復興構想会議のなかで福島を自然エネルギー特区にしてほしいっていう提案もしたけれど、政治家でそれに賛成したのは菅直人さんだけだった」

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津波で町ごと流された陸前高田市の沿岸部
(撮影:赤坂憲雄)

後藤「そこまでですか……」

赤坂「でもね、東北、とりわけ福島という土地は、そういう発想の転換を避けては通れないんですよ。つまり、ここで新しい社会をデザインするという方向に足を踏み出さなかったら、生きていくことができない土地なんです。だから逆説的に、僕は福島こそが〝はじまりの土地〟になると語ってきました。希望というものを求めて、困難であれここから歩み出さざるを得ない。変わらないという選択肢はあり得ない。戻ることもできない。福島は新しい社会をデザインするための、その〝はじまりの土地〟になることによってしか生きていけないんです。それに気がついた人たちが覚悟を決めていろんなところで動き出している。それが未来へのささやかな希望になると思う」

後藤「なるほど」

赤坂「状況は厳しいですよ。僕は震災が起こってすぐ、もはや原発との共存は無理だと思いました。実際に福島では、原発に依存しない持続的な暮らしを求めていこうというのが、震災から2、3カ月の時点で県民の総意になっていた。追いつめられたがゆえに、前に踏み出さなくてはいけない。もうそれしかないという思いで議論をしてその結論に至った。でもね、今、福島で感じるのは〝なかったことにしておこう〟という空気なんです。除染もできない。まだ線量も高い。でも帰りたいと言ってる人たちがいるから、警戒区域のラインを緩めて帰そうと。結局、それが一番安上がりなんです。ここでもあらわに、福島の人たちを犠牲にして、原発事故などなかったことにして元に戻ろうとする巨大な力が働いている。老人たちは住むところを、故郷を失って、仮設住宅で死ぬのは嫌だから帰りたいと言う。子供たちは、〝じいちゃんをこんな場所で死なせるわけにいかない〟と感じている。そういう想いを逆手に取る。〝帰っていいよ〟と囁きかける。除染は金がかかり過ぎる、これ以上は無理だ、汚れているけれど、帰村は止めない、自己責任でやってくれ、というわけですか。もはや国家の体をなしていませんよ。しかし、これが福島の現実です。でも、なかったことにはできないんです」

後藤「そうですよね」

赤坂「変わらざるをえないんです。東京は変わらないですんだかもしれない。とりあえず、やり過ごすことができたかもしれない。でも、いずれ東京にも震災は来る。関西にも。来ないほうに賭けたいけど、来るんですよ。いつか必ず。その時に東北で何が起こり、国家が何をなしたか、それはとても深刻な影を落とすんじゃないかと思う。現在の福島が抱えている問題は、いずれ他の土地も直面する問題なんです。チェルノブイリの6年後にソ連が解体した事実を忘れるわけにはいきません」

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赤坂憲雄(あかさか・のりお)

赤坂憲雄(あかさか・のりお)

1953年生まれ。学習院大学文学部教授。福島県立博物館館長、遠野文化研究センター所長。昨年発足した『ふくしま会議』、ウェブサイト『ふくしまの声』の運営にも携わる。主著に『東北学/忘れられた東北』『柳田國男を読む』など。震災以降の東北を訪ね歩いたフィールドワークの記録は『3・11から考える「この国のかたち」東北学を再建する』で読むことができる。

(※8)安藤忠雄

1941年生まれ。現代の日本を代表する建築家。独学で建築を学び、69年に安藤忠雄建築研究所を設立。「住吉の長屋」「表参道ヒルズ」といった著名な建造物を多く残している。