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東北から“50年後の日本”を描く | 対談:赤坂憲雄×後藤正文

震災以降、誰もが強く意識し、様々に語られるようになった“東北”。しかし、私たちは本当にこの土地のことを知っていると言えるだろうか?
長いあいだ日本の〝辺境〟として位置づけられてきた東北の歴史をたどりながら、復興のビジョン、そしてその向こうにある日本の将来像を見つめ直す——

構成:水野光博/撮影:中川有紀子

東北はまだ植民地だったのか

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後藤「僕がこの新聞を作った動機にも関わってくるんですが、おそらく震災や原発事故についての人々の声は正しく歴史に残らないのではないかという直感があります。政府が残していく大文字の歴史とは別に、きちんと人々の声を残そうとしたとき、民俗学というものがヒントになるんじゃないかと、僕の頭の中に浮かんだんです。そこで民俗学者で〝東北学(※1)〟を提唱されてきた赤坂さんのお話をうかがいたいなと思いました」

赤坂「なるほど。ただね、震災を経て、僕の東北についてのイメージはガラッと変わってきているんです。おのずとすべてのことは『3.11』以後に属している。僕はね、90年代初めから東北を歩き始めたんです。20年間くらい、とにかく村や町を訪ねました。ですから被災地のほとんどが、震災前に歩いたことのある場所でした。震災が起こった時に何をまず感じたのかというと、〝しまった〟という感覚でした」

後藤「それはどういった意味ですか?」

赤坂「東北は昔から、東京に〝男は兵隊、女は女郎(じょろう)、百姓は米〟を貢ぎ物として差し出してきたと言われてきました。でもそれは戦前の話です。震災前、僕が東北を歩いていても、すでに人々の暮らしは豊かになっているし、『おしん』(※2)のような世界がどこかにあるわけでもない。だから僕は、東北はもう十分に豊かになったと感じていたんです」

後藤「なるほど」

赤坂「でもね、そうじゃなかったんです。僕は震災が起こってすぐ、〝東北はまだ植民地だったのか〟というような言葉を新聞のエッセイに書きました」

後藤「植民地ですか?」

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赤坂「東京、つまり中央に貢ぎ物を差し出すといった意味での植民地的なあり方、それはもう過去のものになったと感じていた。しかし、それは間違いでした。僕が実際に被災地を歩き始めたのは2011年の4月初めです。ひたすら巡礼のように歩き続けました。そのなかで、見えにくい、透明な植民地性が実は3.11以前の東北にも残っていた、植民地は終わっていなかったということを、確認していくことになったんです」

後藤「具体的には何を確認されたんでしょうか?」

赤坂「たとえばね、5月の末に南三陸町を訪ねたときのことです。津波の届いていなかった、山側の村にプレハブの建物があったので、〝ここはなんなの?〟と聞くと工場でした。中をのぞかせてもらうと村の女性たちが働いていて、自動車の電子系統の配線を束にする、内職的な作業を黙々とされていました。それでね、ふと気になって時給を尋ねてみると、〝平均したら300円くらいだと思う〟と言われたんです。つまり、時給300円の世界がそこにあった。その当時、僕は政府の復興構想会議(※3)のメンバーだったんです。会議の中で繰り返し語られていたのが、〝東北は日本の製造業の拠点である〟〝東北はものづくりの拠点である〟という言葉でした。僕は〝どこが?〟と感じざるをえなかった。僕がプレハブ工場で見たものは、製造業の最末端、大手の企業の下請けの下請けの下請けくらいの現場なんです。そこまでいくと、時給300円の世界が広がっている。〝東北は日本の製造業の拠点です〟という言葉の裏側に転がっている現実は、要するにそのままアジアに繋がっていくような、内なる植民地としての東北だった。それは20年間歩き続けてもまったく見えてこなかった。だから、〝しまった〟という思いがあった。これまでいったい何を見てきたのか。僕にとっては、ある意味でとても深刻な体験でした」

後藤「初めて聞く話なので、どう受け止めたらいいのか戸惑います」

赤坂「もちろんそれだけではなくて、震災があって初めて多くの人が気づいた、原発が福島に10基あり、そこで作られたエネルギーや電気がすべて東京に運ばれているという構造もありました。つまり、きわめて中央集権的なエネルギーの生産・供給システムができあがっている。電気を送り出す地域は、危険と背中合わせにお金をもらいながら、その役割を引き受けてきた。事故が起こった時に一瞬で見えてしまったものは、要するに、中央集権的なエネルギーの生産・供給システムのなかで、福島がまさしく植民地として機能させられてきたということなんです」

東北(みちのく)に流れる敗者の精神史

赤坂「もっというと、東北は日本の穀倉地帯、特に戦後は食料基地としての役割もあてがわれてきたわけです。つまりね、戦前と戦後を通してみると、東北から中央に対する貢ぎ物の中身が〝部品・電力・食料〟へ変わっただけで、構造自体は何も変わっていなかったということなんですよ。そもそも植民地としての東北という意味では、途方もなく長い歴史があるといってもいい」

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後藤「どこまで遡(さかのぼ)れるんですか?」

赤坂「僕はね、東北は〝千年の植民地〟だと思います。東北を歩いていると、〝大同(※4)〟っていう年号をいろんなところで見かけるんですよ。〝大同年間に、この神社は造られました〟とか。まるでそこで何かが始まった、〝それ以前には歴史がありません〟とでもいうようにね。もっと詳しくいうと東北って、アテルイ(※5)と呼ばれた蝦夷の首長が坂上田村麻呂(※6)と戦って破れて征服された、その時に歴史が始まったという語りになっているんですよ」

後藤「それ以前の歴史はないんですか?それはやはり、言葉の問題と関わってくるんですかね。たとえばアイヌの人たちが書き言葉を持っていなかったために歴史として残っていないように」

赤坂「その通りです。文字として歴史を書き留めていなければ、歴史はなかったものにされてしまう。書き記す文字を持たない者の歴史は、常に一回性の語りとして消えてゆかざるを得ない。結局、勝者からみた歴史としてしか残らないんです。しかも勝者であるヤマトの側は古代の蝦夷について、野蛮で、一族同士で殺し合いをしながら人肉を食らい合っているみたいなイメージを一方的に語ったわけです。ほとんどインディアンみたいに。共通して言えるのは、インディアンもアイヌも蝦夷も、国家に対抗するために自分たちの国家をつくるということをしなかった。部族社会の人たちは、部族連合を作って国家と戦うんです」

後藤「〝まつろわぬ民(※7)〟ですね」

赤坂「そう。でも、結局切り崩されて敗北していった。だから、そこで約千年前に東北の歴史は一度切断されている。そこからヤマトの王権によって征服され、支配下に植民地としての歴史が新たに始まったのです。東北が〝陸奥(みちのく)〟と呼ばれるゆえんもそこにありますね」

後藤「どういうことですか?」

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赤坂「陸奥というのはつまり〝道の奥〟のことです。京都を中心とした政治の道、軍隊や租税を運ぶ道がある。その道が尽きた、その先に広がっている辺境の未開な世界が道の奥、つまり陸奥なんですよ」

後藤「〝文化果つる土地〟というような言葉も聞いたことがあるんですが、きっと同じような意味合いですよね」

赤坂「そうですね。今、NHK大河ドラマで『八重の桜』をやってるでしょ。初めてじゃないかと思うんですよ、敗者の側から幕末〜明治維新の歴史が描かれるのは。いつだって、勝者になった薩長の側からみた幕末維新史が、正史として語られてきたんですね。もちろん東北人のあいだでは敗者としての歴史も語られてはいました。でも東北の人たち、特に会津の人たちはあまり言葉も上手じゃないし、外に対して自らの歴史を語ろうとはしなかった。語ることを禁じられたんですね。その結果、負け組の象徴のようにされて、律儀にそれを引き受けさせられてきました」

後藤「なるほど」

赤坂「そして近代以降、戦前には東北で起こされた国家的な開発プロジェクトは、たったひとつだけなんですよ。明治10年代、宮城県東松島市の野蒜(のびる)というところに巨大な港湾施設を作って、海外からの貿易の拠点にしようというプロジェクトが、大久保利通によって企てられた。でも結局5、6年で失敗して、最終的に松方デフレという緊縮財政の時期にぶつかって切り捨てられるんです。途中で放棄されたわけです。もちろん開発が必ずしもいいことだとは思いませんが、東北は国家的な開発プロジェクトとは無縁な、ひたすら風土に抗う形で〝日本の米どころ〟という役割を強いられたわけです。ここでも東北は見捨てられた土地であったのか。やはり東北には敗者の精神史が流れている。そして震災を通して改めてそれを強いられている、再編させられている、そんな気がしてしまうんです」

後藤「またしても捨てられた土地にされてしまうのかと……」

赤坂「そう。しかも巧妙に去勢する力が働いている。途方もない原発事故で苦しんでいながら、国家や東電に対するストレートな批判が大きな力にならない。なぜか? 反対の声を上げたら、補償金が減らされてしまうんじゃないかと考える。それで口をつぐむ。我慢してしまう、我慢させられてしまう。やはりそれってね、悲しいけど千年の植民地が作ってきた精神のありようだなって思います」

後藤「言葉が見つからないですね」

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赤坂憲雄(あかさか・のりお)

赤坂憲雄(あかさか・のりお)

1953年生まれ。学習院大学文学部教授。福島県立博物館館長、遠野文化研究センター所長。昨年発足した『ふくしま会議』、ウェブサイト『ふくしまの声』の運営にも携わる。主著に『東北学/忘れられた東北』『柳田國男を読む』など。震災以降の東北を訪ね歩いたフィールドワークの記録は『3・11から考える「この国のかたち」東北学を再建する』で読むことができる。

(※1)東北学

〝辺境〟〝みちのく〟といったイメージで語られてきた東北という土地を、文化、地理、歴史、経済など様々な領域を横断しながら研究する学問的な方法のこと。

(※2)おしん

1983年に放送された、NHK朝の連続テレビ小説。山形の貧しい寒村に生まれたヒロイン・おしんが、明治から昭和まで激動の約80年間を懸命に生きる姿を描く。脚本は橋田壽賀子。

(※3)復興構想会議

正式名称は東日本大震災復興構想会議。被災地の復興のあり方について、総理大臣の諮問に応じて調査や審議、提言を行なった。学者、被災県の知事、作家などの有識者で構成された。2011年4月発足、翌12年2月に復興庁の設置にともない廃止。

(※4)大同

平安時代の806年から810年までを指す、日本の元号。

(※5)アテルイ

8世紀後半、陸奥国・胆沢地方(現在の岩手県)を本拠とした〝蝦夷〟の首領。阿弖利為とも書く。蝦夷とは、古代より北関東から北海道にかけて住んでいた民族のこと。

(※6)坂上田村麻呂

平安時代初期の武将。征夷大将軍として蝦夷を征討した。

(※7)まつろわぬ民

まつろわぬ〟は〝順わぬ〟と書く。王朝など時の権力者に抵抗を続け、服従しない民族を指す。大和朝廷に抵抗し続けた蝦夷を形容する際にあてられることの多い言葉。