ゆったりと流れる島の時間。
ただ、週に1度だけ、島の主婦たちを少しだけ急かす曜日がある。
「そうだ、今日はちょっとだけ晩御飯を早くしないと」
島の女性の大事なおしゃべりの場でもあるデモは、
いつも笑顔が絶えない
毎週月曜日、午後6時半。港近くの漁協に島民は集まる。「元気やった?」、「どうしちょった?」。そんな会話や笑い声が響く。まるで井戸端会議のような和やかな雰囲気。この集いが、30年間続く、“上関原発建設反対デモ”だ。訪れた2012年10月29日は、1148回目のデモだった。参加者の中のひとりのおばあちゃんは言った。
「健康促進! 食後の運動みたいな感じ!」
事の発端は1982年に遡る。祝島から海を挟み、約4キロ離れた長島の先端部、田ノ浦に中国電力上関原発の建設計画が持ち上がった。海面を埋め立て、沿岸部とあわせ約33万平方mの敷地に2基の原発を建てるという計画だ。
それを知った旧祝島漁協(現県漁協祝島支店)婦人部が中心となり、“上関原発を建てさせない祝島島民の会”の前身“愛郷一心会”が設立され、デモが始まった。“とし坊”と呼ばれる会の代表・清水敏保さんは、照れ笑いしながら言った。
「この島、昔から女が強く、男は大人しい」
当時、計画を知った祝島の住人は、福島第一原発2号機の現場に出稼ぎに行った島民の話を聞き、原爆の被爆者の話に耳を傾け、原発の専門書を回し読みしたりした。遊漁を生業とするデモ参加者のひとりは言う。
「船に乗せたお客さんが、『原発ができたら、もう釣りには来れんのう』って言ったんよ。そりゃあ反対せにゃ」
瞬く間に島民の約9割の反対署名が集まった。以来、周辺漁協の中で祝島だけが総額約10億8000万円の漁業補償金の受け取りを拒否している。
「島の自然は、島の生活は、金じゃ買えん」
島民はデモだけではなく、抗議活動も絶え間なく続けている。中国電力の作業船を漁船で囲み抗議したこともある。2011年2月には、中電が作業員、警備員、計600人、船二十数隻を一斉動員した。島民は、陸上で、海上で、命がけの抗議行動を行う。その数日後、福島原発の事故は起こった。
長い抗議活動のなかで、1割の推進派の島民との対立もあった。住民同士が助け合う島の空気は一変したという。親戚同士でも付き合いを断ち、葬儀にも参列しないこともあった。ただ、前述した氏本農園の土地は、推進派の島民の棚田を借り受けたもの。反対も推進も、“島のため”という想いが根底にはある。白と黒だけではない灰色の感情もまた、今なお複雑に絡み合っている。
当初デモは毎週300人が参加していたが、30年という歳月の経過とともに高齢化が進み、今では参加者は100人を切った。歩く距離も3分の1に。
人がすれ違えるかどうかの狭い路地をデモは往く。
祝島には街灯がほとんどないため、
冬場は真っ暗闇のなかの後進になる
「楽しくやるのが続けるコツ。辛かったら続きません」
そう言った、おばあちゃんは、“原発絶対反対”と書かれたハチマキをしていた。何度も何度も洗濯したからだろう。赤字で書かれた“絶対”の文字だけ、色褪せていた。
1148度目のデモが始まり、参加者が小道を練り歩く。「原発反対、エイエイオ~!」のシュプレヒコールとともに。それは、島民の“故郷を守りたい”という願いであり、叫びであり、祈りだ。
2012年10月、枝野幸男経済産業相(当時)は、上関原発について「原発を新増設しない原則の適用対象だ」と述べ、建設を認めない考えを示した。だがデモ参加者は、「政権が変われば、どうなることか……」と不安を隠せない。
約20分のデモが終わると、三々五々、解散となる。連絡事項がある場合などはデモ後、公民館に集合する。デモに参加させていただいたお礼にと、後藤正文と、いとうせいこうが歌を披露した。お返しにと、とし坊こと、清水さんが島の民謡、『磯節』を披露してくれる。島民が手拍子し、促され歌い手が次々に変わっていった。歌い終えたおばあちゃんは笑う。
「磯節は、祝の席で歌われる唄。みんな譜面で覚えたんじゃのうて聞き覚えだから。歌う人によって、節もちっとずつ違うし、歌詞も唄いやすいように言葉を付け加えたりせるんよ」
街灯は、ほとんどない。月と星が大きく瞬く。家路につく、ひとりの男性は「原発建設が白紙撤回になるまでデモは続けます」と呟いた。
「30年……。正直、疲れることもある。でもね、自分がイヤなことは、次の世代もイヤでしょう。それに、子供に、孫に、見せてあげたいじゃないですか。今よりもっと綺麗な海を、空を、星を」