瀬戸内海の西部に浮かぶ、祝島(山口県熊毛郡上関町)。漁業と農業が盛んな、自然豊かな周囲12kmの小さな島。その島の住民は、“対岸”で持ち上がった原発建設計画に反対するため、30年もの間、デモと抗議活動を続けている
石積みを漆喰で固めた「練塀」は、
島特有の強風から家々を守る
三代で築き上げた「平さんの棚田」。
1段の高さは8mにも及ぶ
豚の放牧は全国でも稀。
同じように、牛や鶏も放し飼いにされている
瀬戸内海への玄関口となる、山口県東部にある柳井港。祝島への定期船『いわい』が日に2本、祝島から柳井港へは日に3本が運航している。船に揺られること1時間と少し。小さく見えていた島が次第に大きくなっていく。
港から島を見渡すと、その景色は南国の町並みを想起させる。石積みを漆喰で固めた練塀。密集するように、寄り添うように建てられた家屋は平屋が多い。島特有の強風、そして直撃することも多い台風対策。先人たちの知恵だ。
家と家の隙間を、縫うように広がる細い道は迷路のよう。車が通れるのは、海沿いの道くらい。あちこちで猫が日向ぼっこしている。
カブをお借りして、急勾配の坂を越え、常緑樹のビワ畑を抜け、島の南端を目指す。
15分も走れば、城壁のような棚田が広がっていた。そこは“平さんの棚田”と呼ばれ、観光名所にもなっている。平萬次さんの祖父・亀次郎さんが、90年前に「米さえありゃあ生きていける。子供や孫のために田んぼを残そう」と、傾斜45度の斜面に鬱蒼と生い茂る木々を、30年かけ切り開き築いたのだ。
積み上げた岩の中には、人の背丈を優に越す大きさのものもある。掘っても掘っても岩。それを切り出しては積み上げ、平地を作り、土を敷き田んぼにした。7歳から手伝い始め、今年、72度目の稲刈りを行った萬次さんが、棚田を見上げて笑う。
「昔は、この棚田しか知らなかったけぇ。米いうのは、こうやって作るもんじゃと思っちょった。でもね、やるって決めたら、なんでもできる。人ってすごいもんじゃろ」
萬次さんの、その太く、ささくれ、変形した親指は、積み重ねたであろう時間と労力を、幾万語の言葉以上に物語っていた。
港まで戻り、今度は西にしばらく進むと、氏本長一さんが営む“氏本農園”がある。この農園では、全国でも珍しい豚の放牧を見ることができる。祝島出身、北海道で牧場長を務めていた氏本さんは2007年、57歳にして故郷の祝島に戻り、豚の放牧を始めた。毎朝、島の家庭から出た野菜くずや残飯を回収し、豚に与えている。
「豚って臭いイメージがあるでしょ? でもね、ここの豚は臭くない。配合飼料を一切使ってないから。これ、嗅いでみる?」
氏本さんが手に取った糞もまた無臭だった。糞は、そのまま土に帰り、種を含んでいるため、マクワウリ、キュウリ、トマトなどが育ち、食卓に並ぶ。
「無駄なもの、なーんもないんです」そう言う氏本さんは、誇らしげだった。
島の人口は現在500人弱。ほとんどが顔見知り。今も風習として、年齢にかかわらず、名前の後に“坊”もしくは“ちゃん”をつけ、島民たちは呼び合う。漁師の家から魚を、農家からは野菜やお米を交換する習慣も残っている。また、年に一度の“道こしらえ”と呼ばれる自治会行事もある。各家庭から1名以上が参加し、島の山道の草刈りをする。助け合い、支え合う習慣が、この島には、今なお息づいている。島民のひとりは言った。
「高度成長期には、この島の子供は“大きくなったら島を出て行かなければいけない。この島はなんもないから”と教え育てられた。でも今、Uターンで戻ってくる人、Iターンで島に来る人も多い。空き家も多いんですが、ほとんどの家主が“いつか島に戻ってくるから”、“老後は故郷で暮らしたいから”と言うんです。美しい山と海、空と風がある。ほかには、特に何もない。でも、昔とは人が大事にしたいものが、少しずつ変わってきたのかもしれん」
島内の小学校には、現在4人が通っている。だが、中学は休校となっているため、中学生は午前7時前の定期船で本土に渡り、夕方帰ってくる。高校は、本土に下宿し通学することになる。一度、その生活に慣れたら、島に戻った際、本土が恋しくなることはないのだろうか? だが、20代の女性はこう言った。
「あっちにしかないものがある。でも、こっちにしかないものがあるから」