後藤「古川さんの小説を読むと、いつも自分の考え方やものの見方の角度をゆっくりずらされるような感じがします。僕たちが覚えた太文字の年号の間から、ぶわっと何かがあふれ出てきて、ゆっくり右や左に傾いたり、回転したりする。そういう経験をすることによって、あの礎のように、太文字の年号みたいな存在ではなくて、一人ひとりなんだというところに立ち返りたいって、強く思います」
古川「俺、大熊町の木村(紀夫)さんの娘さん(※4)のことは報道では知ってて、何度も映像では見てたんだけど、そのときはまだ自分にとって犠牲者の中のひとりだった。でも、今回慰霊碑にご家族と一緒に名前があったのを見て、一人ひとりの集積が犠牲者なんだっていうのを改めて突きつけられた。あれはある意味、俺の中では平和の礎と一緒で、やっぱり大きなシートで包むんじゃなくて、一個一個に還元する必要があって、共感っていうのは、その一個一個からしか生まれないと思う」
後藤「そうですね。ボーダーを越えて、越えて、最終的にはたったひとりの名前のところまで行かないといけない。福島のことを考えたり語ったりするときに、どう向き合ったらいいのかっていつも悩むんですけど、自分にふさわしいのは一緒に戸惑うことだって思ったんです。右往左往して、居ても立っても居られない、そういうすべての感情を引き受けて、関東で生活しているひとりの人間として、一緒に戸惑うことしかできない。外側に身を置いて、〝こうでしょう?〟って語るんじゃなくて、言葉が出てこないってことも含めて、一緒に戸惑いたい。それ以上でもそれ以下でもないなって」
古川「音楽でも小説でも、それに浸った後に、ページを閉じたり、ヘッドフォンを外したり、ライブ会場から出たりしたときに、日常がちょっと変わって見えるでしょ? その変わって見えるってことが、一種の共感の力であって。書いたり読んだりすることで届けるべきは、自分とは関係のない世界に入って、別な自分になって、それを体の中に100分の1くらい残した自分で生き直すっていう体験で、それが我々に必要なことなんじゃないかと思う」
後藤「自分は歌詞を書く人間なので、言葉数少なく表す側の人間ですけど、その乱暴さはよくわかっていて…。シートで覆うような言葉使いはしたくない。むしろ、その逆がやりたいんです。すごく複雑なんだってことを表したい。シートを引っ剥がして、フレコンバッグを破って、中にある土を見つめ直したいんです」
双葉郡富岡町。除染によって生じた廃棄物の仮置き場。
古川「前にゴッチから聞いた言葉でずっと覚えてるのが、〝自分の役割は種を蒔くことじゃなくて、種を蒔いても土がないとダメだから、土を用意することなんだ〟って言ってて。ゴッチは帰還困難区域の中でも土から生える植物に目を向けてたし、あの言葉を現実的に実践してるんだなって思った」
後藤「確かに、そうでしたね。でも、古川さんは区域内の牛だったりとか、動物にすごく目を向けていて、古川さんの小説に登場する動物たちを思い出しました。同じ風景を見てるようで、実際は違うものを見てるっていうのは当たり前のことなんだけど、それすら忘れてしまうんですよね。同じものを見て、同じことを考えなきゃいけない空気があるというか」
古川「それは自分をコモディティ化しちゃうってことで、書くとか読むっていうのは、それとどう戦うかってことでもあると思う」
後藤「そう思います。その空気が、日本中を覆っている気がするんですよね」
古川「覆ってるし、この2年くらいで加速してるね」
後藤「ずらっと並ぶ製品のひとつであれば安心で居心地がいい、なぜかみんなそう思っているように感じます。海外の国々でライブをしてみて思いますけど、オーディエンスがこんなに隣の人間を気にしてから自分の楽しさを発露する国は他にないですよ。それがよさに結びついている部分もゼロではないと思うけど、でもコモディティ=日用品っていう比喩は確かにそうだと思いました。自分からシートの中に入った方が安心っていう。そうじゃなくて、それぞれのインディペンデンスを自覚的に持った方がいいと思う。俺は君と違うし、君も俺とは違う。そんなことは当たり前だよって」
古川「昔〝個性〟っていう言葉が流行って、個性をどう育むかを学校で教えるみたいな話があったけど、個性=キャラクタリスティックスじゃなくて、〝自立=インディペンデンス〟って言葉に変えるべきだと思う。個性を押し付けようとすると、逆にコモディティ化が起きちゃう。そうじゃなくて、自立なんだっていう」
後藤「〝自分の足で立つんだ〟ってことですよね。そのためにも、まずはシートをはがさないといけない。日本ってシート、国民ってシートをはがす。そうじゃなくて、俺たち一人ひとりが集って日本になっているんだって。まず最初に大きなシートに包まれてしまうのは、何かを書いたりすることと真逆の向きだと思う」
古川「これからやらないといけないのはボトムアップで、一人ひとりから何かを作っていかないとね。ボトムアップをするってことは地面に立つってことで、一人ひとりが地面に立って踊り出せば、被せられてたシートが揺れて、破けるのかなって」
後藤「福島と沖縄で見えたのはそういうことだと思います。僕らがそれぞれにやっていかなければいけないことのヒントを、あのシートと礎が表していたように思います」
あるいは修羅の十億年(集英社)
舞台は2026年東京。放射能汚染によって隔離された被災地「島」からやってきた、天才的騎手・喜多村ヤソウ。東京オリンピック後、スラムと化した“鷺ノ宮”を偵察する「島」生まれの喜多村サイコ。先天性の心臓病を患う少女・谷崎ウラン。17歳と19歳と18歳の3人が出会うとき、東京を揺るがす事態が巻き起こる―。
聖家族(新潮文庫)
狗塚羊二郎は囚われていた。殺人罪。死刑。なぜ彼は人を殺したのか。なぜ彼は殺人術を使えたのか―。聞こえてくる兄の声。妹の訪問。祖母が語る歴史。やがて過去、現在、未来は混濁し、青森の名家・狗塚家に記憶された東北の正史(ヒストリー)が紐解かれる。時空を貫く血の系譜は、どこに向かう?狗塚三兄弟が疾走する「妄想の東北(とうほぐ)」。
馬たちよ、それでも光は無垢で(新潮社)
私は福島県の中通りに生まれた。私は浜通りに行かなければならない―。大震災からひと月、「時間」を喪失した作家は福島沿岸をめざす。失語する景色、不可視の放射線、傷ついた馬たち。やがてドキュメントは小説と交錯し、南相馬に現れた「彼」、かつて作家が描いた『聖家族』の狗塚牛一郎が語りはじめた。渾身の長篇小説。
古川 日出男(ふるかわ・ひでお)
1966年福島県郡山市生まれ。小説家。著作に20世紀の軍用犬たちの叙事詩『ベルカ、吠えないのか?』、世紀末の東京でのテロ事件に手向けられた鎮魂曲『南無ロックンロール二十一部経』など。昨年発表の『女たち三百人の裏切りの書』では野間文芸新人賞と読売文学賞をダブル受賞した。震災直後のドキュメンタリーでもある『馬たちよ、それでも光は無垢で』は仏語訳とアルバニア語訳も刊行され、この3月にはコロンビア大学出版より英訳が発売になる。'13年から郷里の郡山に『ただようまなびや 文学の学校』を開校し、学校長も務める。
■注釈
(※4)
福島第一原発にほど近い大熊町熊川地区に住んでいた木村紀夫さんは、現在も津波で亡くなった次女の汐凪ちゃんを捜索し続けている。