いとう「でも、いくらなんでも復興予算があんなおかしな使われ方をしてることが、バンバン報道されてたりするのにさ。なんでもっとみんな街に出ないのかね、怒りに」
後藤「僕もそう思います。大飯原発の再稼動だって、要はIAEAが定めた5層の防護設備(※5)があったじゃないですか。そのうちの3つ目までしか達成できてないのに、再稼働してしまって……。本当に、いい加減だと思います。あんな事故があって、十数万人が自宅に戻れなくなって。それでも勝手に、暫定的に安全だと言って動かす。メチャクチャですよ。しかも、まだ動いてますからね。電力需要が逼迫すると言われていた夏場だけの話かと思いきや。だからもう本当に、どこかで怒りを表さなければいけない」
いとう「もちろん、“デモなんて意味がない、選挙があるじゃないか”って声もあるけど、選挙は間接民主主義だから。代表を選んで、代表にやらせるっていう。代表にプレッシャーを掛けるのは、もちろん大事だと思います。だけど、デモはもっと直接民主主義に近いものだから。とにかく体を運んで、体を表に現して。こんなに言うことを聞かないやつがいるってビジュアライズするもんじゃないですか」
後藤「わざわざ来られるのが権力者は怖いんですよね」
いとう「そうなんだよ。僕ら以外の国は、みんなそうですよ。それが普通に当たり前のことで。先進国は違うって、そんなことない。フランスだって、アメリカだって、ドイツだって、そうやってみんなやってます。日本だけデモっていうものを80年代からすごい否定してきちゃったわけで。それはやっぱり、すごいキャンペーンだったんだなって、今さらながらに思うね。俺もやっぱりどっかで、今さらデモに出てもって思うところもあったし。デモってカッコ悪いという、知らない間のキャンペーンが、ずいぶん功を奏したんだと思う。それで今、みんな目を覚まして、“ちょっと待って。あれって騙されてたんじゃねえの?”って、俺たちの世代は思ってる。下の世代はもっと直接的に“外に出よう”と思ってるし」
後藤「でも、まだ僕らとか、僕らより若い世代は、デモに対する抵抗感って全般的にある気がしますけどね。当たり前にしたいなって思うんです。誰かを殴ったりするわけでもないし。なんらかの意見を、体を使って表すことが、必要以上に奇特な行為とされているのが問題だと思います」
いとう「そうなんだよね。別におかしいと思ったら、“おかしい”って言いに行っていいんだよ。俺はね、90年代終わりくらいからよく言ってたことがあるんだけど。日本人が社会的に怒りを表さなくなったのは80年代からなんだよね。60年代、70年代は、怒ったら平気で外に出ていた。統計を取ったわけじゃくて直感的な考えなんだけど、社会的な怒りを表さなくなった頃から、個人的な理由による無差別殺人が増えたと思うんだよね。みんな怒りを鬱屈させちゃうから、心が病になっちゃう。当たり前だよね。ふざけんなって思ったら、みんなで外に出て“ふざけんな!”って言うことで、社会も、社会的な個人も精神的にきちんと安定すると思うんだよね。デモがないっていうことが、実は犯罪を生んでるんじゃないかって思うことすらあるよ」
後藤「普段から抑圧されているってことですよね」
いとう「そう、怒っちゃいけないから内側に向かうじゃないですか。誰でもいいから傷つけてやれって。目立ちたいからとか。いや、目立ちたいんだったら、デモで名演説したほうがいいよ。それで、その演説をYou tubeに上げたらいいよ」
後藤「あと、やっぱり身体を伴っているというのがすごく大事な気がするんですよね。自分が政治権力の側だったら、ネット署名って怖くないなって思うんですよ。“インターネットで顔のない人たちが言っていることって、どうせ選挙に結びつかないでしょ”って政治家たちは思っているでしょうけれど、デモの現場まで電車に乗ったりして、実際に来る。その身代性って無視できないと思うんです」
いとう「うん。選挙って結局、数じゃないですか。すごい抽象的な。1時間後にはもう世論が少し変わってるかもしれないって世界じゃない。数%で言えば。それは柄谷行人(※6)さんが言ってるんだけどさ。だけど、デモに1回行くと、すぐに離脱したっていいのに、20分、30分はいるわけじゃん。身体って切り替え利かないんだよね。愚鈍だから」
後藤「そうですね」
いとう「その切り替えの利かない物質がこれだけ集まって、同じように歩いてるってことは、やっぱり政権にとって本当に脅威だと思う。ディスプレイは効いてると思うし、効くと思う。顔があるから。それぞれ顔があって、実際に見れば、いろんな人がいろんな意見を言ってるんだなって。顔と名前を知ってると、なかなか人を殺せないって言うからね。物じゃないから。デモって、それを現わしに行ってるんでしょ」
後藤「そうですね。それがもしもノイジーマイノリティだとしても、効くと思うんですよね。それはなぜかって言うと、僕らも作品をつくるじゃないですか。どう批評されてるか気になりますよね。たったひとつのネガティブな意見が気になったりする。たとえば、アマゾンのレビュー欄にレビューを書く人って特殊だと思うんです。特殊だと思いつつも、少しは気にするじゃないですか。少なからずこういうことを考えてるヤツもいるんだって想像する。それがネットだと効力がやや落ちますけど、デモのように、わざわざ来ると強い。これに尽きる。参加者は何らかの時間を返上して意見を表明しに来るっていう。本来はそういう自由があって然るべきなんですけど、一般市民たちが相互監視するような形を演出されているような、そういう雰囲気がありますよね。それがちょっと怖い。みんながみんな、誰か間違ってないか探してるっていう」
いとう「そうそう。足元見てるっていうか。“何か失敗しないかな”って見てるっていうか。そういうことが好きになっちゃったんだろうね。この国の人が」
後藤「どうしてなんでしょうね? でも、それってデモのようにどこかで意見を表明する場所が簡単にないからこそなんですかね」
いとう「しばらくなかったからってことなのかもしれないね。でも、だから今、いろんなアーティストや著名人がデモの中に混じってる。そして写真の中に映ってるってことは、本当に健康なことだなって。そういうことが何度も何度もあるから、テレビの中の人が、エネルギー問題に疑問があるとか普通に表明するようになってきてるじゃない。それはやっぱり、顔を出した人がいるからだと思うよ。最初にやった人を尊敬するし、自分も誇らしく思うし。今後、そういう余波がどのように繋がっていくのかっていうね」
後藤「普通にデモに参加していいと思うんですけどね。やれ俳優は行っちゃいけないとか言う人いますけど、おかしいですよね」
いとう「おかしいよ。それは、その人に信用があるかないかの問題だけでしょ。職業なんて関係ない。逆に言ったら、別にアメリカがえらいわけじゃないけど、アメリカでは、むしろ政治的な意見がないようなコメディアンはバカにされるからね。“結局、民主党なの、共和党なの?”ってよく言われるわけで。そこでどっちかをバッサリ斬る論理がないコメディアンは相手にされないんだから」
後藤「エネルギーだけの問題にとどまらず、もっといろんな人が自発的に、自分の意見を持って発することが、当たり前になって欲しいです。ダンス禁止の動き(※7)にたとえれば、“誰かに踊らされてるんじゃなくて、踊るのは私なんだ”って。そういう気持ちがないと、ちょっと厳しいんじゃないかって思います。結局、みんな進んでシステムの中に入って、考えることを放棄して誰かに預けて。そうすると、その問題については悩まなくて済んでしまう。今はそういう社会というか時代だと感じます。いろんなことが便利になるにつれて、やっぱり何かを捨て去ってるんですよね。たとえば、技術を得ること、それを繋いでいくことも、難しさと共に価値があるわけじゃないですか。でも、これをどこかで僕らは投げ捨ててきてる。その代わりに、他の便利を買っている。過剰な便利を買うために原発のようなものが必要になるっていう。そういう悪循環が絶対にあると思っていて。一方で、祝島のようなとこに来て思うのは、ひとりの都会生活者として我々は原発を、産業廃棄物の処理場でもいいし、町単位で言えば火葬場だっていいんですけど、“どんな場所に何を建てているのか”っていうのは、知ったほうがいいと思うんです。僕らのライフスタイルを保つために、どこかの町が引き受けている施設ですから。でも、祝島に100人来たら70人くらいは、あの綺麗な海を実際に見たら、なんでこんなところを埋め立てるのって思うはずなんですよ。そういう想像力の欠如は、いろんな場所にあるような気がします。例えば、デモは奇特だっていう発想も、そういう想像力の足りなさと繋がってるというか。デモをひとつの生き物のように見てしまっているっていう」
いとう「いろんな人がいるからね。実際は」
後藤「顔なしにするんですよね。見てる側はね。マジメな人もいるし、もちろん変わった人もいる。祝島でも、田んぼをやっている人の中にも原発に賛成だっていう人がいるし、反対だって人もいる。個人の顔をみんなで塗りつぶすことが、社会全体の想像力を奪っているように思うんです。僕はこれに抗わないと、自分の音楽もそうやって想像力を働かせて聴いてもらえなくなるんじゃないかって。聴く側のイマジネーション、読む側のイマジネーションって絶対、表現物が正しく理解されるために必要なんですよ。そういうところも、どんどん削ぎ落とされてしまっている感覚があります。たとえば、昔の文豪たちが書いた小説や、昔の人が熱狂的に読んだような小説も、文体や内容が難しいって感じはじめている自分がいるんです。読む力が落ちていってるんじゃないかっていう危機感があるんですよ。聴くことに関しても、もちろん同じです。それは、全部、バラバラな場所で起こっていますけど、農業だったり、音楽だったり、芸能だったり、漁業だったり、エネルギーだったり、全部根っこは同じなんじゃないのかと思っています」
いとう「とにかく一律になっていくわけですよ、世界が。一律になっていったほうが、開発費もいらないし、よりソフィストケイトしていけばいいわけだから、買うほうも作るほうも楽なんだと思います。でも、それやってると、産業自体が先細りになるから、結果的に新興国に出し抜かれちゃうよ。だってタイとかフィリピンとか、映画で言えば、“おかしいんじゃないの?”っていうテーマで撮るし。音楽も作家も面白かったりするんですよね。ラテンアメリカ文学がすごく面白いのと同じように、世界の一律化に抗っている人たちが、頑固かというと、意外やそうでもなくて、柔軟に時代の先を行ってると考えなきゃいけないと思うんだよね。そのために、この一律的で中央集権的で先細りになる社会は嫌だって思う気持ちで、家を出てデモに参加するわけです。僕、デモで、みんなが持ってない楽器を使うのもいいかなと思って、友達が家に置いてった赤ちゃんのガラガラを振ったりなんかしてさ。もちろん、変な個性はいらないと思ってるから同じシュプレヒコールを必ずしますけど、その間にちょっとだけ自分のアレンジを入れたりなんかして、リズムを入れたりなんかして。そうやって、豊かさを求めてるんですよね」
後藤「多様性って豊かさだったのに……。今の世の中は、シンプルに同じものであってほしいっていう」
いとう「それはだから、金融資本主義になっちゃって、本当にお金だけが価値になっちゃったからじゃないの。IT関連の人たちがもてはやされたくらいから」
後藤「それはありますね。だから、音楽で言えば、楽曲は商品かって問題ですよね」
いとう「そうだよそうだよ」
後藤「違うよって思うんですよ。でも、一定のやり方を強制されることが多いですよね。だから、言われるままにならず、例えば“一律3000円のCDなんかで出したくねぇ”ってみんな言ったほうがいいと思うんですよ、最近特に。自分の選んだやり方で出したいなって。レコードも出したいし、高音質の配信もやってみたい。だって、CDで売りたいっていうのはレコード会社の都合ですから。最も普及しているメディアだし、安くできるし、ガッチャンガッチャン工場でやればいいだけなんですよ。そんなものをコピーするなって言ってるほうが僕はおかしいと思うんです」
いとう「元々がコピーじゃないかっていうね」
後藤「細かい規約がミュージシャンの活動やリスナーの楽しみ方に対して、制限的に働くこともあって、何が本当の利益なんだろうみたいな感じがするわけですよ。いくらなんでもこの時代にはそぐわなくなってきてると思います。このことについて、僕はずっと疑問に思ってやっていますけど、疑問に持たなくてもいいシステムなんですよ。結局、ミュージシャン自身も、そんなこと言ったってしょうがないじゃんって、CDを選ばされてるところもあるし、選ばないことを自分で選んでいるところもあると思うんですけど……。音楽だけではなくて、これはどういうことなんだろうって考えてみると、たいがい他の分野でも同じことが起こっているように感じます」
いとう「そうだね。たとえば農業は、各地の道の駅みたいなところにJAが直接野菜を持ってくるようになって。地産地消だし、お互いに隣の農家と違ったものを作ったほうが売れるから、多様性が出てきたりして、すごい面白くなってきてるんです。大手のスーパーマーケットに行ったら、そういうのは見えない。けれども、地方の小さなJAは、なかなか頑張ってるって思うんだよね。だからそういうものを、面白いんじゃないって紹介する役目として僕らはいるわけでしょ」
いとうせいこう
1961年生まれ。小説『ノーライフ・キング』をはじめ、数多くの著書を発表。作家、作詞家、映像、音楽、舞台など幅広い表現活動を展開している。日本のヒップホップのオリジネイターでもあり80年代にはラッパーとして活動。09年には、□□□にメンバーとして加入。また、台東区「したまちコメディ映画祭in台東」総合プロデューサー、「たいとう観光大使」も務める。ベランダで植物を楽しむ「ベランダー」としても知られる存在。
(※5)『IAEAが定めた5層の防護設備』
原発の安全性を保つために満たすべきとされる、5段階の国際基準。1層から順に「故障の防止」「異常の拡大防止」「事故の発生防止」「過酷事故の悪化防止」「原発外の対応」
(※6)『柄谷行人』
哲学者、思想家。法政大や近畿大の教授を歴任。主な著書に『日本近代文学の起源』『マルクス その可能性の中心』『世界史の構造』。政治、民主主義に関する著作も多く、官邸前の抗議行動についての発言も行なっている
(※7)『ダンス禁止の動き』
日本ではクラブやライブハウスで客に営業目的でダンスさせるには風営法の許可が必要で、営業時間なども細かい規定がある。ここ数年、これに違反したとして全国でクラブの摘発が相次いでおり、特に大阪や京都では多くのクラブが閉店、縮小営業を余儀なくされた。2012年5月、坂本龍一やいとうせいこうらが呼びかけ人となり、風営法からダンスに関する規定を削除するよう求める「レッツダンス署名推進委員会」を発足させ、各地で署名活動を行なっている