HOME < 坂本龍一(日本と未来)

坂本龍一

東日本大震災から1年以上の月日が過ぎました。被災地と一言でまとめてしまうことのできない、様々な “現在地” 。
私たちの日々の生活も、例外ではありません。『THE FUTURE TIMES』第2号では、未来に向かって、それぞれの “現在地” を考えるための言葉を集めました。——震災前から、環境問題に取り組んできた音楽家・坂本龍一さん。その問題意識の源泉と、音楽について、編集長・後藤正文が話を伺いました。

取材/文:水野光博 撮影:外山亮介

輝いていた若き林業家の瞳

後藤「僕、『THE FUTURE TIMES』というニュースペーパーを作ったんですけど、創刊号で、坂本さんの呼びかけで設立されたmore Treesの被災地支援プロジェクト“LIFE311”の取材をさせていただきました。本当に素晴らしい取り組みですね」

坂本「後藤くんが取材された住田町の多田欣一町長さん、とっても男らしいというか、男気に溢れた方でしょ。震災後、いち早く、木造建築の仮設住宅を作ろうと。しかも、住田町で育った木で、住田町の大工さんが作る。そして、隣町の陸前高田市の人に入居してもらう。多田さんたちが、そういった支援をしようとしているのを、我々more Treesが知ったのは、実はツイッターだったんです」

img001

後藤「そうだったんですか」

坂本「ええ。住田町って元々、日本の中ではとても珍しく、林業がちゃんと仕事になっていて、若い人も携わっているんです。彼らと、more Treesのスタッフがツイッターで知り合い、この話を知ったんです」

後藤「住田町を取材させていただき、僕が一番感動したのは、若い林業家たちの目が輝いてることでした」

坂本「そうそうそう。カッコいいですよね」

後藤「カッコ良かったですね。しかも、話を聞くと、木質バイオマスの話や、どうやって採算ベースに乗せていくかって話までしっかり考えていて」

坂本「そうですね。住田町には大きな製材所、切り出した木を、大工さんが使う木板にする大きな工場があるんです。そこで端材というか、いらない木の部分がたくさん出ますよね。それを普通は、捨てちゃったりされるんです」

後藤「そうらしいですね。一般的には、4割くらいは捨てているという話を取材で知って、ちょっと驚きました」

坂本「そうなんです。だけど、住田町の工場では、それを木質ペレットにして燃やし、工場を動かす電気を自給している。大きな工場ですから、かなりの電気を使うと思うんですけど、全部自給してるんです。さらに、木質ペレットが余るので、かなり安い値段で、町の人にも売っている。だから、町のエネルギー自給にもいくらか役立っているという。素晴らしいところですよね、本当に」

環境と自分というのは、ほとんど自分と一体

後藤「本当に素晴らしいですよね。坂本さんは、2007年からmore Treesの活動をされてますよね」

坂本「はい」

後藤「僕が、more Treesの活動を知ったのは、2年前くらい前なんです。ツアーをしながら、やっぱりどうしても自分が石油、化石燃料を使いながら、行ったり来たりすることに対する逡巡があって。more TreesのHPで、カーボンオフセットのことを知り、使ったんですね」

img005

坂本「そうなんですか。僕もやはり、自分の仕事の足元から環境のことを考えたいと思って。まず、少しずつできることから始めたんですね。最初はたとえばCDのパッケージを、エコフレンドリーなものに変えたりですね。それが90年代。それから、ツアーのことも考えるようになって。ローリングストーンズのような巨大なワールドツアーだったら、ものすごく効果があるんでしょうけど、僕ぐらいの規模のツアーで努力しても、そんなに違わないと思うんですけどね。でも、それぞれが自分の持ち場でやるべきだと思い、2001年のツアーで、トラックに太陽光パネルと小さな風力発電を積んで、ツアーに並走してもらったんです。結局、そのトラックが化石燃料で走り、CO2を排出してるんですけどね。それでも、電気を作りながらツアーをしました。もちろんツアー全体の電気をまかなえたわけではなく、その時はたった10%くらいでしたけどね。後は、ロビーに自転車を置いて、お客さんにこいでもらって、その電力でライトをひとつ点けたりとか。その後、2005年くらいかな、カーボンオフセットという考えが入ってきたので、リハーサルとツアー全体で使用する電気量を測って、その分の電気をお金で買うようになりました。もちろんそれは、再生可能エネルギーの発電所から買うんです」

後藤「坂本さんの活動を、何度かテレビで拝見したんですけど、恐らく僕らの世代と比べても、10年くらい早く始められてると思うんです。最初のきっかけというか、源泉というのは、どういうところにあるんですか?」

坂本「僕の場合、以前は、そういうことに全然興味なくて。わりと、こう見えてロックンロールな生活をしてるんですよ。やってるのはテクノでも。きっかけは変な話ですけど、老化が始まったんですよね。老化を自覚し始めた。40歳過ぎくらいから、まず目にきて。今、後藤くんいくつですか?」

後藤「僕は35歳です」

坂本「まだ大丈夫ですね。僕は42歳くらいから、“あれ!? 目が見えにくい”みたいな感じで老化を実感し始めまして。それから初めて、自分の身の回りのことというのかな、食べる物、飲む物、着る物、住環境などを意識するようになった。結局、それって環境ですよね。しかも、その環境というのは、どこか遠いところの環境ではなくて、常に自分の体の中に入ってきて、自分の体の一部になって、また出て行く。環境と自分というのは、ほとんど一体というか。我々は、自然の中にいるということを、生まれて初めて意識したのがきっかけなんです。どこまでいってもエゴイスティックというか(笑)」

後藤「なるほど。環境って自分の生活と繋がってますもんね。僕の場合は、震災の前から原子力発電のことについて調べ始めたんですね」

坂本「きっかけは、何かあったんですか?」

後藤「最初は、六ヶ所村の問題を知ったことですね。放射性廃棄物の問題が一番気になったというか」

坂本「でも、ミュージシャンで珍しくないですか、そういう人って?」

後藤「そうですね。珍しかったですね。で、そういうことを公式サイトの日記とかに書き始めると――」

坂本「ファンが引きませんでした?」

後藤「反響としては、“お前らも電気使ってるだろ”ってのが最初に来ましたね」

坂本「僕も最初にCDのパッケージをエコフレンドリーなものに変え始めた時、“坂本がおかしくなった”とか言われたりした」

後藤「そうだったんですか」

坂本「ええ。でも、世の中の空気がずいぶん変わってきたのが、2001年を過ぎてからですかね。もちろん、徐々にですけど。環境の雑誌、『ソトコト』とか、そういうものも次々と出てきたり。今やコンビニにもエコな店があるくらいですから、隔世の感がありますね」

後藤「確かに、ありますね」

坂本「ただやっぱり、この事故の前までは、原発の問題とかは比較的タブーな雰囲気があったと思います」

後藤「そうですね。ありましたね」

photo02
坂本龍一

坂本龍一(さかもと・りゅういち)

1952年東京生まれ。78年『千のナイフ』でソロデビュー。同年、細野晴臣、高橋幸宏と『YMO』を結成。84年、自ら出演し音楽を担当した『戦場のメリークリスマス』で英国アカデミー賞受賞。映画『ラストエンペラー』の音楽でアカデミー賞、グラミー賞他受賞。90年代から、環境・平和問題に言及することも多く、論考集『非戦』を監修。自然エネルギー利用促進を提唱するアーティストの団体『artists'power』を創始するなど、活動は多岐にわたる。