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1年後の現在地(岩手)

2011年3月11日。千年に一度の大津波に見舞われた、岩手県のリアス式海岸。それは、20代と30代が 現在いる場所さえも変えた。震災から1年を経た今―― 復興へと歩む人々は、どのような思いを抱いているのか。

取材/文:神吉弘邦 撮影:安田菜津紀 イラスト:タカヤママキコ

今はとにかく、前を向こうと思ってますよ!

 製鉄所とラグビーチームで有名な街の名前は、海産物のブランドにもなっている。鮮度バツグンの〝泳ぐホタテ〟を市場や百貨店だけでなく、個人顧客にも出荷する会社があると知ったとき、商品がどんなものか想像もつかなかった。その会社とは、釜石にある海産物問屋の『ヤマキイチ商店』。〝三陸泳ぐホタテ屋の二代目〟を名乗る君ヶ洞剛一さんは、笑いながらこう教えてくれた。
「海水に入れて生きたままホタテをお届けするんですよ。だから、個人宅への贈り物で品物が届いたら中でガサガサ音がするとか、封を解いたら海水が飛び出してカーペットが水浸しになったとか、他ではあり得ないような〝ありがたい苦情〟をお受けするんです。でも、食べた方からは美味しかった、とお手紙をいただくこともしばしば。全国の市場でも最高値で取引させてもらっていましたからね」
 自慢のホタテを語る彼は、本当に生き生きとしている。ただ、そのホタテ貝は震災後に全国の食卓へ届けられてはいない。港沿いに案内してもらった空き地には、無数の貝殻が地面に散乱していた。
「ここがウチの心臓部である〝生簀(いけす)〟のあった場所です。1万枚以上の貝と一緒にすべてが流されました。小学生の頃から親しみがあったところでしたよ」

 『ヤマキイチ商店』は、浜の漁師から貝を買い付ける問屋だ。震災前に取り引きしていた漁師の中で、最も信頼していた浜の漁師は18名だったが、その中で漁を再開できるのは4名にすぎない。
「ホタテを育てるのには手間がかかりますからね。でも皆でスクラムを組んで、決して諦めませんよ。今はなくなってしまったものを振り返るタイミングではなくて、前を向いて進むときだと思っています」
 生簀に隣接する加工工場と自宅も流され、今は近くにプレハブの建物を建てている。この付近は盛り土で海抜を上げる〝かさ上げ地区〟になることが予想されるが、まだ都市計画は決まっていない。最終的に『ヤマキイチ商店』は生簀ごと高台に移転させるつもりだ。
「綺麗な海水を汲み上げるポンプや配管が必要になりますが、悪いことばかりじゃないです。たとえば、釜石の美味しいホタテをその場で食べたい人もいるはず。高台にある国道沿いにホタテの浜焼きのお店が並んだら観光名所にできるでしょう? こうしたアイディアを街づくりに反映させたいですよね」
 そう語る君ヶ洞さんは、Facebookなどを駆使して、若い世代の声を未来の街づくりに生かそうとしているところだ。

 次に向かった大船渡市・越喜来(おきらい)地区では、20代の生の声に触れることができた。場所は、震災のために5年間移転中の北里大学海洋生命科学部の校舎にある体育館。フットサルの合間に話をしてくれたのは、東京から震災後に地元へと戻った中野圭さんだ。
「僕らが以前サッカーをしていた場所は、流されてしまったり、仮設住宅の用地になりました。だから、地元の仲間で集まれる場所を提供してもらえたのは嬉しいです。この1年で地元に戻った同級生もけっこういますね。ここには仕事がないと言われがちですが、元々少なかった若い世代は引く手あまただと感じます」
 震災翌日、東京にいた中野さんは付近の出身者に呼びかけ、レンタカーで越喜来へと向かった。30時間の道のりだったそうだ。家族の安否確認をしてすぐに東京へと戻るが、その数ヵ月後に自分で興したばかりの東京の会社を畳んで、地元へ戻る決意をする。

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「父は漁師ですが、今はひと家族でひとりだけ海に出ようという申し合わせを漁協でしているから、どのみち僕は船には乗れません。それなら山に目を向けてはどうだろう、と岩手の木材を使った箸作りのプロジェクトを立ち上げました。このビジネスから、ゆくゆくは雇用を生み出すのが夢ですね」
 その箸の名前は「鬼喜来箸(おきらいはし)」。越喜来の旧名を冠した箸は、秋田・川連塗(かわつらぬり)の職人の手による本格的な出来映えである。中野さんは、普段はNPOに属して支援が行き届かないエリアを作らないように調査する活動を行いながら、鬼喜来箸の販売を模索している。「気持ちが明るくなる色を選んだ」という黄色に、復興への思いも乗せる。

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浅井 麻結

君ヶ洞 剛一(きみがほら•たけいち)

有限会社『ヤマキイチ商店』専務取締役。33歳。三陸産のホタテ、ウニ、アワビなどを売買する活貝問屋を父子で営んでいる。中高時代を野球部で過ごす。北海道の大学を卒業後、青森・弘前の百貨店に6年間勤務。28歳で家業を継いだ。ブログ「ホタテ屋復興までの道のり」で、海辺の日常や街づくりについて発信している。
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浅井 麻結

中野 圭(なかの•けい)写真前段中央

株式会社『オキライクリエーション』(登記準備中)取締役。25歳。NPO法人『いわて連携復興センター』 ネットワーク推進員(JCN担当)。『okirai goblin PROJECT』 メンバー。2011年夏、『LIGHT UP NIPPON』の呼びかけに応じて現地で花火を打ち上げ、『ASIAN KUNG-FU GENERATION』他を招いたライブを有志で運営。
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