福島第一原子力発電所で起きた事故は、現在でも、避難生活を余儀なくされている人だけではなく、様々な困難と軋轢を全国各地で生み出している。「何をしていいのか分からないけれど、とにかく声を上げなければならない」。若者たちの小さな決意が、ひとつのツイートをきっかけに繋がってはじまった反原発デモ『TWIT NO NUKES』。その成り立ちと想いについて、中心メンバーの平野さん、竹中さん、黒澤さんに聞いた。デモに偏見を持っているひとにこそ読んで欲しいインタビュー。
後藤「まずは、TWIT NO NUKESの活動がどうやってはじまっていったのかを聞かせてください」
平野「最初は3.11があって、世の中がひっくり返るようなことが起こってしまったと思っていて、それからしばらく何をしていいか分からないような感じだったんですけど…。震災から2週間が過ぎた頃、3月27日に銀座で『再処理とめたい!首都圏市民のつどい』という3.11以前から活動している団体のデモがあったんです。原発事故のニュースをずっと見ていて、今まで言ってこなかったけれども、やっぱりここでちゃんと反対って言わないといけないんじゃないかっていうのがあって。それで結構、Twitter上でフォローし合っている方とか、“この日にこういうデモがある”とか “行きましょう!”という感じで呼びかけをしていたんです。そういうのを見ていて、行ってみようかなっていうのがあって、それまでデモ自体には参加したことなかったんですけど、初めて銀座のデモに参加して」
後藤「そうなんですね」
平野「3.11前までは毎月定例でずっとやっていたデモで、参加者もかなり少ないときもあったようですけど、その日は個人参加の方が1200人くらいTwitterとかで情報を知って集まって。僕もその中のひとりだったんですけど。その後、しばらく“他に次のデモないのかな” ってTwitter上でいろいろなひとが書いていて。東電前で抗議をやっている方たちもいたんですけど、“何で繁華街でデモがないんだろう” みたいな話が結構タイムラインに流れていたんですね。もしかして今のタイミングだったら、Twitterで呼びかけたら意外とひとが集まってデモができるんじゃないかと思って、そこで初めてツイートしたのがきっかけです」
後藤「平野さんが最初にツイートしたんですか?」
平野「はい。そうですね」
後藤「それで、竹中さんと黒澤さんは、それに反応したという感じですか?」
竹中・黒澤「そうですね」
竹中「Twitterでは平野さんをフォローしていなくて、まったく知らない方だったんです。自分は小学校6年生のときにチェルノブイリの事故があって、母親も反原発のひとだったんで原発とかの知識がある程度はあったんですけど、結局何もしないままあの日(事故当日)を迎えてしまって…。やっぱり何かしたいなっていうのがすごくあったんですよね。デモも参加したいと自分も思っていたんですけど、平野さんたちが参加した3月27日の銀座のデモは参加できなかったんですよね。そんなときに平野さんのツイートが流れてきて、見た瞬間、これだ!と思って公式リツイートをしたんです」
後藤「そのときはもう『TWIT NO NUKES』という名前だったんですか?」
平野「そのときはまだ名前はなくて、いつも『◯.◯◯反原発デモ@渋谷原宿』って名前なんですけど、『~を実行するツイッター有志一同』っていう名前を使っていました」
後藤「黒澤さんも平野さんのツイートに反応して」
黒澤「そうですね。自分が一番最初にリツイートして。見た瞬間に“自分と同じこと考えている!!” と思って」
後藤「以前から、知り合いなんですか?」
平野「いや、Twitter上でフォローしあっていただけです」
後藤「初めてやったTwitterデモはいつだったんですか?」
平野「去年の4月30日ですね」
後藤「ちょうど一年だったんですね、この前僕が参加したのは(2012年4月29日のデモ@渋谷原宿)」
平野「そうですね。はい。一周年ですね」
後藤「当初はどうでした?やってみての実感というか」
平野「僕は正直、自分のフォロアーが少なかったというのもあって、アイデアは出してみたものの実現するとは全く思っていなくて。それが皆さんの協力で拡散していって。Twitterでリツイートされて拡がった数と実際に来る人数にどれくらい違いがあるんだろうと思ってたんですけど、実際1000人くらいは集まったんですよ。そのデモを一回やったところで原発が止まるかって言ったらそういうことはないんですけれども、何かやっぱり、まず一回できたんだなってことで。ただ、達成感のようなものはなくて、終わったときにはもう、これからどうすればいいんだろう?って思っていました」
後藤「沿道からの見られ方ってどうですか?最初と現在でちがいはありますか?」
平野「全然ちがいますね。去年の4月頃っていうのはもっと冷たい反応…。今初めてデモに参加したら、それでも冷たい反応って思うかもしれないですけれど、さらに冷たいっていうか、無視に近い反応が多かったです。本当に面白いことに、このデモに関しては回を重ねるごとにどんどん沿道の反応が良くなっていて。拍手しながら涙流しながら見ているお婆さんとか、若いお母さんが手を振ってくれたりだとか。やっぱり、ずっとこのデモ自体を渋谷でやってきたし、他のデモも渋谷でやることが多かったんですよね。渋谷という街がデモに慣れてきたのかもしれないですけど、変わりましたね」
後藤「なるほど。渋谷とか原宿とか、繁華街でデモをやることの目的というか、効果はどういうふうに考えていますか?」
平野「そうですね。最初にデモを呼びかけたときもよく言われて、“なぜ国会のほうへ行かないんだ” という意見もあったんですけど、その頃は——去年の春は原発が怖いと思っているのに “原発反対”って言いやすいような状況ではなかったと思っていて。まず、街に普通に買い物に来ているひとに向けてというか、政治の中枢に向かってではなくて、むしろ世間の中で原発反対という声が当たり前にある状態を作らないとっていうところで、回を重ねてきたところがありますね」
竹中「広報活動みたいな感じですね」
平野「そうですね。広告みたいなものかもしれないです」
竹中「(渋谷原宿は)若いひとが多いし、それに一応、流行じゃないですけど、発信するのは渋谷とか原宿とかじゃないですか。そこで回をずっと重ねて行くことによって周知していった部分があって。今年の3月11日に国会を包囲したときも、1万人以上集まりました。毎月我々がやっているTwitterデモ自体はそんなに増減がないですけど、周知していったことがあって、あの1万人以上があると思うんですよね」
後藤「デモに対する視線が徐々に変わってきているのは僕も感じます。そもそも僕が変わりましたからね。僕も最初は、 “デモって何のためにやるのかな”って疑問があったんですよね。繁華街でやることの意義ってなんだろう、どうして霞ヶ関でやらないんだろうと思って。実際、休みの日に霞ヶ関でデモやることの虚しさって、3月11日の日比谷のデモを見て分かりましたけど。抜けがらなんだな土曜日曜の霞ヶ関はって。公務員だからね」
平野「そうですね。震災の直後に東電前の抗議とかもあって、そこに自分も行っていたんですけど、やっぱり霞ヶ関の休日って本当にひとっ子ひとりいないような感じで(笑)。そういうのも結構繁華街でやるきっかけにもなりました」