さらに国道45号線を南下し、宮城県に入る。気仙沼は、駅前や中心部の商業地域に震災の跡はあまり見られない。だが、魚市場などがある気仙沼港近くのエリアでは、風景が一変する。釜石と同じように〝窓〟のついた防潮堤の建設が進んでいる場所もあれば、更地のままの状態になっている場所もある。市の復興計画についての勉強会に参加する住民の話では、防潮堤建設に反発する市民と県や市町のあいだでやり取りが平行線をたどり、工事完了のめどは立っていないのだという。
気仙沼港付近で建設が進む〝窓〟付きの防潮堤。水産業の関係者からは、魚市場への出入りが不便になるといった声も上がっているという。
赤坂「気仙沼は港町でしょう? あの巨大な防潮堤では海が見えないし、海が見えなければ漁師は仕事にならないんじゃないかという気がするね。海辺の観光を盛り上げようにも、防潮堤を見に来る人なんていないと思うし。それにしても、気仙沼に限らず、三陸はどこもかしこも工事現場という感じだよね。だけど、それぞれの土地で復興の状況に違いはあっても、復興のビジョンっていうのはどこにもないんだなって思う」
後藤「復興の形が画一的だなっていう印象は僕も持ちました。とにかくコンクリートで町を塗り固めてくっていう。民主党政権の頃のスローガンは〝コンクリートから人へ〟だったんですけどね。結局、またコンクリートに戻しちゃってる」
赤坂「僕は震災後、政府の復興構想会議というのに2ヵ月ほど関わりました。復興の方向性について議論する場で、〝防災から減災へ〟という提言があったんです。つまり自然災害のすべてをなくすことはできないから、少しでも被害を小さくすることを第一に考えるべきじゃないかって」
後藤「なるほど」
赤坂「するとね、防潮堤の問題についてこんなことがありました。役人が〝沿岸部に13.7メートルの防潮堤を造る〟と言うから、〝じゃあ、18メートル、20メートルの津波が襲って来たとき、その防潮堤になんの意味があるんですか?〟と聞いた人がいた。それに対して役人は〝これは防災じゃなくて、減災の高さなんです〟と言うわけ」
後藤「減災の高さ?」
赤坂「つまりね、われわれの提言を盾にとって〝減災〟というフレーズを単なる数字の話にすり替えてしまった。減災というのはそういった意味では断じてない。後藤くんも言ったように、ハードで町を守るのには限界があるから、ソフトで少しでも被害を軽減するような方向でものを考えようという意味だから。防潮堤に囲まれたような土地に住み続けるんじゃなくて、居住地を高台に移すような話し合いをしていこう、とかね。それがどうして〝減災の高さ〟なんておかしな発想にいってしまうのか」
後藤「役人の文法ですよね」
赤坂「目が点になったよ」
後藤「それに、防潮堤って東北の復興の象徴みたいな言われ方をしますけど、結局のところ、事業を請け負って懐を潤わせてるのは、地元の有力な土建屋と東京のゼネコンだっていう事実がとてもはがゆく思えてしまって…」
赤坂「巨大な工事で町をごっそり作り替えるという発想を見直さない限り、その構図は変わらないよね」
後藤「うーん…」
赤坂「僕は〝防災から減災へ〟という方向と同時に、これからの社会は〝成長から成熟へ〟という方向に向かわざるをえないと思うんです。人口減少と少子高齢化が進むなかで、これまでの成功体験を手繰り寄せて成長を求めるのは無理がある。暮らしや生業のありようを根底から考え直さなくてはいけないんだよ」
後藤「本当にそうですよね」
赤坂「これは前回の対談でもお話ししたけど、震災後すぐ、南相馬の付近でたまたま通りがかった泥の海。そこは明治30年代以降の開発によって、潟を水田にしたエリアだったといいます。じゃあ、津波で泥の海になったその場所をどのように復興していくのかを考えたときにね、僕は〝震災のときに水田だったんだから、水田に戻すべき〟って発想に縛られたらダメなんじゃないかと感じた。なぜなら、農家の方はすでに70代後半で、これから排水設備を整えて水田に戻したとしても、自力で耕していける年齢ではない」
後藤「そうですね」
赤坂「であるならば、その泥の海を〝明治30年当時の潟に戻す〟という発想も、可能性のひとつとして考えるべきなんじゃないか。近代というのは、土地を小さく分割して私的な所有に委ねてきたわけです。水田に開発された時点で、潟は私的な持ち物になった。じゃあ、それ以前はどうだったか? 要するにね、そこは入会地(いりあいち)、みんなの潟、みんなの海だったんです。周辺に住む人たちが共同利用していた。それによって生まれる地縁のようなものも存在したわけです。僕は泥の海の行く末に、成熟社会のリアリティがある気がするんだよ。この国の復興政策というのは、3.11以前の状態に戻すことにはお金を出すし、それが無条件に是とされているけど、もはやそこに大義はないんだから」
太陽が沈みかけた頃、この日の最終目的地に到着する。約120年のあいだに4度も津波に襲われてきた南三陸。ここでも中心部の約60ヘクタールを約10メートル嵩上げし、市街地を整備する工事が続いていた。同時に高台移転が進められ、先頃、総合病院や小学校も再建されている。しかし、人口の流出が止まらず、震災前と比べて約3割も減ったという。
5年という月日の慈悲と残酷、そのふたつを同時に思った。
赤坂「震災から5年が経って、被災地から見えてくる未来。僕はね、おぼろげながら浮かび上がってきたなっていう気がするんです。正直、状況はとてもシビアだけれど、わずかばかりの希望のようなものを取っ掛かりにして、今日感じたことをお話しますね」
後藤「お願いします」
赤坂「釜石で出会った君ケ洞さんの話が示唆的だったと思うんです。まず僕がとても共感したのは〝震災直後、みんなで大きいことを考えたんだけど、何ひとつモノにならなかった〟っていう話。確かにね、僕らもそうだった。未曾有の災害を経て、だからこそ日本社会を180度転換するような何かができるんじゃないか、それが必要なんじゃないか、そんな思いに囚われていた時期があったんです」
後藤「それは僕もよくわかります。震災当初は、社会全体が一発でバチッと切り替わるようなスイッチを思い描いたんですけど、でもそうじゃなくて、ひとりひとりがパチパチと小さなスイッチになってくしかないんだなって。それはこうして新聞を作っていても思います。それぞれのスイッチに語りかけながら、アメーバのように繋がって、いつしか網の目のようになっていけばいい。結局、そういうふうに変えていくしかないんですよね」
赤坂「同感だね。そして君ケ洞さんはこうも言ったよね、〝小さくてもいいから、わかりやすい成功例を築いていくことが大事だ〟って。自分が成功モデルになって、みんなが安心してついて来れる状態にしたいって。そのために身の丈でできることを、ひとつひとつ手探りしながら続けるんだって。あの感覚は、これからの社会をデザインするための拠り所になるのかなと思いましたね」
後藤「〝身の丈〟っていうのは印象的な言葉でしたね」
赤坂「きっと、彼が5年かけてたどり着いた言葉なんだろうね。僕はね、震災の2週間後に発表したエッセイにこう綴っているんです。《人としての身の丈に合った暮らしの知恵や技を、民俗知として復権させねばならない。人知が制御しえぬものに未来を託すことはできない》と。でも実際に被災地を歩き始めてみると、そこに広がる風景があまりにも途方もなくて、〝身の丈? 民俗知? そんなものどこにもありゃしないよ〟って絶望した。そこからなんとか突破口を作りたくて奮闘したけど、あまりにも無力で、いつのまにか身の丈というものを見失ってしまったんだよね。だけど、身の丈で何ができるのかってところにもう一度戻らざるをえないなって、改めて背中を押してもらった気がします」
後藤「そうですね」
赤坂「被災地が今、追いつめられるような形で受け入れざるを得ない、人口減少、少子高齢化、産業衰退、その他もろもろの問題があるよね。でも、それって結局、テープの早回しのように、日本の未来に起こることを先取りしているだけなんだよ。だから震災が暴き出した問題は、被災地だけではなくて日本社会が全体で引き受けなきゃならない。それなのに、震災のことなんか忘れた顔で原発を再稼働してしまったでしょう?」
後藤「川内原発ですね」
赤坂「しかも、再稼働したのは〝月命日〟と呼ばれる(2015年8月)11日。まるで狙いすましたかのようにね。どうして再稼動が必要なのかについても、一切の説明がなかったでしょう? 野田(佳彦)元首相が2012年6月に大飯原発を再稼働させたときは、一生懸命、言い訳をしたんですよ。再稼働しないと電力供給がままならず、日本経済が成り立たなくなってしまう。国民の生活を守るために再稼働しなければならないってね。ところが安倍(晋三)首相は再稼働の日、表にすら出てこなかった」
後藤「そうでしたね」
赤坂「ここ最近、原油やガスは値下がりしているから、原発に頼らなくても電力供給は可能なはず。すると〝原発を動かさないと日本経済が立ち行かない〟という論理は成立しない。つまりね、ここにも大義がないの。原発を再稼働する必要なんてないんだよ。それなのに動かすって、どういうことか? 動かすことによって莫大な利権を得る者がいるからとしか思えない。彼らはね、息をひそめるように再稼働の機会をうかがってきた。そして、誰一人責任を取らない形で原発を動かしてしまった」
後藤「あえて月命日を選んで、〝震災は終わったんだ〟と言わんばかりに」
赤坂「被災地への想いがあれば11日は選ばないよ。だから僕はそういった強欲な利権、巨大な中央集権的な経済といったものに抗うためにも、お金の意味を変えたいと思っているんです。たとえばね、地域の信用金庫が地元から集めたお金を、グローバルプレイヤーのような顔をして世界の株につぎ込んだあげく、失敗して大損をこうむっている――なんてことが日本のそこかしこで起こっているわけ」
後藤「やるせないですね」
赤坂「馬鹿げた話だよ」
赤坂憲雄(あかさか•のりお)
1953年生まれ。学習院大学文学部教授。福島県立博物館館長、遠野文化研究センター所長。主著・編著に『東北学/忘れられた東北』『司馬遼太郎 東北を行く』『会津物語』など。現在の三陸沿岸の復興状況とその問題に関するレポートは『ゴーストタウンに死者は出ない 東北復興の経路依存』(小熊英二との共編著)で読むことができる。本紙5号(「震災を語り継ぐ」2013年7月発行)では、東北の歴史と復興のビジョンについての対談(「東北から50年後の日本を描く」)を行なった。