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5年目の三陸海岸を歩く 対談:赤坂憲雄×後藤正文

復興の現実と成熟する社会

 国道45号線を南下し、大船渡を経て陸前高田へ入る。中心部へ近づくにつれ、視界に更地が広がっていく。陸前高田は平地が多い地形のため、津波が広田湾に面した平野へ直接流れ込み、市街地を丸ごとさらった。現在は、旧市街地を中心に10メートル前後の嵩上げ工事が進んでおり、住宅や商業施設が集まる街がつくられる予定だという。
 そして、『奇跡の一本松』にほど近いエリアで見た光景は、異様ですらあった。巨大なベルトコンベアが、空を覆い尽くすように張り巡らされている。総工費約120億円、全長3キロメートルに及ぶベルトコンベアは『希望のかけ橋』と呼ばれ、気仙川の西側にある愛宕山を切り崩した土砂を、沿岸部まで運び出してきた。2015年10月で搬出は終了し、標高125メートルあった山は45メートルまで削られた。
 冷たい小雨が降るなか、この日も解体作業が続いていた。


後藤「ベルトコンベアが張り巡らされた光景は、本当になんて言ったらいいんでしょう…あそこまでいくと、もう土木実験、社会実験ですよね」

赤坂「何度見ても強烈な光景だよね。愛宕山の土砂を運び出す様子を最初に目の当たりにしたとき、僕はゾクッとしたというか、〝これって許されることなんだろうか?〟という、怯えのような感覚すら持ちました」

後藤「それに、土砂で嵩上げした場所に8階、9階建ての住宅を作る予定もあるそうですけど、果たしてそういったものが住民のニーズに合っているんでしょうか?」

赤坂「〝元の町に戻そう〟とは言ってるけど、住人たちが戻ってきても、そこはもう自分たちの町じゃない、まったく別の町になってしまってるだろうね」

後藤「どんな町になるのか、とにかく工事のスケールが巨大すぎて、想像が追いつかないというのが正直なところですが…。〝地縁〟っていう言葉があるじゃないですか。でも、人工的な土地では住人同士の縁も薄まってしまうんじゃないかという気がして心配です」

赤坂「残念ながらそれは避けられないと思う」

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役目を終えて解体が進むベルトコンベア。ダンプカーでは10年かかるといわれた嵩上げ用の土砂の運搬作業を、約1年半で完了させた。

後藤「それから、あまりに刹那的すぎるなって思いましたね。土砂の搬出作業が終わったベルトコンベアを、その場ですぐ解体してスクラップにしてましたよね? 120億円もかけて作った設備を、ゴミのように使い捨てにしていた。役目が終わったら、ただの鉄の塊っていう」

赤坂「すごく無機質な感じがしたよね」

後藤「どこか別の場所で再利用するとか考えてもよさそうなものなのに、本当に短期的なことしか考えてないんだなって。僕にはあのベルトコンベアの扱い方が、そのまま作業員の扱い方にも適用されてるように思えて恐ろしくなりました。まるで雇い主が作業員に向かって〝山を崩し終わったら、君たちは用なしだ〟って言っているような…」

赤坂「どうして目先のことしか考えられないんだろうね。日本は50年後、人口が8千万人台に減少すると言われている。それなのに、巨大な復興予算を公共事業に突っ込んで、空中楼閣のような町を作るっていう選択が正しいんだろうか? 正しいわけないよね。20年、30年、50年先にそこで暮らす人たちの想いや選択をイメージしながら、生活の基盤、産業の基盤っていうものを整えていかないと。それってね、実はそんなに予算もかからないはずなんだよ。今つぎ込んでる10分の1の予算でも可能かもしれない」

後藤「僕はやっぱりハードよりもソフトを大事にするっていうことを、もっと真剣に考えるべきだと思うんです。どれだけ頑丈なハードを作ったとしても、いつか必ず朽ち果てるわけで。それに、どんなハードでも、動かす人の技術、信念や理想――つまりソフトの部分が疎かになると立ち行かなくなってしまうって、それは原発事故を見れば明らかなのに」

赤坂「結局、何も学んでないのかって、悲しくなるよね」


 旧市街地を歩いたあと、市内の高台にあるコミュニティカフェ「りくカフェ」に立ち寄って昼食を摂る。ここは〝まちのリビング〟をコンセプトに地元の主婦たちが中心になって運営しているスペース。立ち上げにあたっては地域住民、都市工学の研究者、建築家、企業がそれぞれの立場でアイデアを持ち寄り、クラウドファウンディングで資金を集めた。現在はカフェに加えて、ギャラリーやイベントを行なう場所としての機能も果たしている。
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後藤「このカフェには、新聞の取材で陸前高田へ来たときはよくお邪魔させてもらっていて」

赤坂「へぇ、そうなんだ。居心地のいい場所だね。こういうスペースでの活動を通して、地縁っていうものを繋ぎ止めるのは大切だと思う。そもそもの話を聞くけど、後藤くんは昔から東北のほうに縁があったの?」

後藤「いえ、震災があって初めて繋がりを持つことができた人たちがほとんどですね。震災から3カ月くらい経って、バンド仲間と一緒に大船渡やこのあたりに炊き出しで来たのが最初だったと思います」

赤坂「そうでしたか」

後藤「震災直後はもう本当に固まっていたというか、毎日泣いてばかりだった気がします。音楽とまともに向き合えるような精神状態でもなくて、でもここで何か鳴らさなければミュージシャンとして失格というか、書き留めておくことが仕事だろうって自分に言い聞かせて、なんとか1曲、形にしました。静岡の実家に戻っていたので、近所の楽器屋で機材を買い集めて部屋で録音して、その音源をすぐネットに上げたんです。『砂の上』という曲なんですが、同時に寄付も募ったんですよ。確か、3月18日だったと思います」

赤坂「震災の1週間後か」

後藤「そうですね。でも、アップしてすぐに〝自己満足だ〟とか〝誰も聞くわけないだろう〟とか、ものすごい叩かれてしまって」

赤坂「異様な時期だったからねぇ」

後藤「正直、驚きました。ミュージシャンたちが何か行動を起こすだけで、売名だとか言われたりしてましたし」

赤坂「僕も震災直後はあまりの出来事に完全に言葉を失ってしまっていたんだよね。すぐに原稿の依頼も来たけど、最初は全部断ってた。すると〝赤坂さんは沈黙を守っていらっしゃいます〟と悪気なく言われてね。僕は沈黙しているつもりはなくて、語るべき言葉が見つからなかったわけなんだけど」

後藤「わかります」

赤坂「そのうち被災地の仲間と電話がつながるようになって、そこでも言葉を求められて、僕はようやく目が覚めた。長年、民俗学者として東北をフィールドワークしながら、そこに暮らす人々の背中を押してきたはずの自分が途方に暮れてる場合かってね。それで震災から2週間後くらいだったかな、とにかく間違っていてもいいから言葉を紡ぎ、語ることを始めたんです。ただね、何かを書くことによって、僕も後藤くんと同じように批判を受けたりもしました」

後藤「そうだったんですか」

赤坂「例えば、ゴジラやナウシカを引き合いに出しながら放射能による汚染や福島が置かれた状況について書いたら、こんなときに怪獣やアニメの話なんかしてる場合か?っていう具合にね」

後藤「不謹慎じゃないか、みたいな」

赤坂「まさにそう。まるで追悼の言葉を並べることが正しい態度であるかのようにね。そういった批判を浴びながら、言葉がすごく窮屈なものになっているなっていうのを感じていた。と同時に、自分が世の中の空気から微妙にズレちゃってるのかなっていうことも思っていました」

後藤「うーん…」

赤坂「でもね、その当時書いたことを今読み返しても、何ひとつ訂正すべきことなんてないんだよね。だからあのとき無理やりにでも言葉を発することを始めておいて本当によかったと思ってる」

後藤「わかります。僕も『砂の上』という曲があったおかげで、ノイジーな声だけに振り回されてはいけないっていうのを経験として学ぶことができたので。それにあの当時、一歩踏み出したことで生まれた繋がりは本当に特別なものになったと思いますね」

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赤坂憲雄

赤坂憲雄(あかさか•のりお)

1953年生まれ。学習院大学文学部教授。福島県立博物館館長、遠野文化研究センター所長。主著・編著に『東北学/忘れられた東北』『司馬遼太郎 東北を行く』『会津物語』など。現在の三陸沿岸の復興状況とその問題に関するレポートは『ゴーストタウンに死者は出ない 東北復興の経路依存』(小熊英二との共編著)で読むことができる。本紙5号(「震災を語り継ぐ」2013年7月発行)では、東北の歴史と復興のビジョンについての対談(「東北から50年後の日本を描く」)を行なった。