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西加奈子

残るもの、残らないもの。

西「私、この宇田川カフェでバイトしてたとき、イベントでバンドやDJを呼んで、プレイしてもらうことがあったんですけど。レコードに針を置いた瞬間とか、ギターをギャンッ!って鳴らした瞬間、店の中のお客さんの集中が一斉に集まる。あれはええなぁ。小説が何十万部売れたって、その数のお客さんが本に没頭してる瞬間を、同時には見られないから。音を鳴らすミュージシャンの集中力は、嫉妬ではないけど、純粋にうらやましいなと思う」

後藤「ずるいですよね、音楽は」

西「あはは! なんでですか (笑) 」

後藤「耳をふさがないかぎり飛びこんでくるものだから。それこそ暴力的でしょ」

西「でも、おもんない話されても全然聞こえへんように、いい音が、人を集中させるんやと思う」

後藤「なるほど」

西「あと、音はそのままで伝えられるでしょう。たとえば、ビール飲んで『美味い!』という感情を伝えるのに、あれこれとこねくりまわして表現を駆使したところで『美味い』という感情の実体には届かない。身体性のあるものを、言葉で描く限界というか。音楽は身体性そのものやから、ダイレクトに飛ぶ。それはほんまに、すごいと思います」

後藤「たしかに鳴っている音を、音のまま伝えられるのはいいですね。『ギターがギャー ンと鳴った』と小説で書いても、読んでる人によって、それぞれ違う音のはず。伝えるモノの再生方法は、根本的に違うかもしれないですね」

西「絵画と似てる。『空のような青』と書いても、人によって見える青色は違うでしょう。でも空を描いた絵画で、表現されている青は、それ以上でもそれ以下でもない。その曖昧なものが一切入りこまへん感じに、私は泣いちゃったりする。ウソが入りこまないものって、すごい尊い。その点、小説はほんまにしゃらくさいから」

後藤「ははは!」

西「私はそのしゃらくささというか、読んでる人の性格や姿勢を通して伝えたいものが変わる、ある種の共同作業をいとおしいと思ってるから、ずっと小説を書いてます」

後藤「音楽も変わりますよ」

西「そうなんですか?」

後藤「ライブによって『今日は伝わってるなとか、いまいちだな』とか。ホールの雰囲気やお客さんの感じで、かなり変わりますよ。ただ、ひとつの音を何百人で同時体験できる のは音楽の特性でしょうね」

西「ライブ中って、どういう精神状態なんですか?」

後藤「人前で演奏する頃には、曲はもう自分から完全に離れているから。曲には、言葉を読むような感情移入はしません。どこかの一点に向かってるだけ。たまに自我がなんにもなくなっちゃうときがありますね。頭の中はゼロだけど手は動いてる、声を出している、感動で毛穴だけが開いてるみたいな」

西「禅の修行みたいですね」

後藤「これが音楽そのもの、音楽と一体化するというか」

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西「めっちゃええやん! いいなぁ」

後藤「音楽は届くスピードが断然に速い。演奏している間は言語が頭にあるんだけど、音楽的言語の方が先に出てます。作詞してると、よく思いますよ。言葉ってのろまだなと。感じていることのほうが、ずっと先に行っちゃってる」

西「わかる! たとえば『さびしい』って小説で書いても、それは感情に一番近いからそう書いてるだけで、ほんまは『さびしい』ではないんですよね」

後藤「そう、そう」

西「『がめしい』とか、創った言葉で伝わったらいいんですけど (笑) 」

後藤「ははは!」

西「その『がめしい』を、音楽は表現にダイレクトに乗せられるから」

後藤「それはずるいことかもしれないですね。でも言葉は、音楽より残る力がありますよ」

西「そうかな?」

後藤「何百年のタームで考えたら音楽のほうが全然残らない。たとえば五線譜の楽譜が発明されたのは中世だから、パピルスの時代の音楽は再現できないんです。音楽はあったんでしょうけど、再生する記録が残ってないからどうしようもない。音楽史的にはグレゴリオ聖歌とかの以前の音楽って、よくわかってないそうなんですよ。楽譜らしきものは残ってるんですけど。音符がハート型に並んでいたり、なんのことかわからない。五線譜のロジカルな再現方法に駆逐されてしまった。あるいは整理された。だからCDも、何万年か後に発見されたとして。プレーヤーが完全に絶滅してたら、そこにどんな音が入っているのか誰もわからなくなるんです」

西「なるほどなぁ」

後藤「坂本龍一さんも言われていることですけど。再生する方式が、今みたいなスピードで変わってゆくと、音楽を後世に残してゆくということ自体が難しいことなのかもしれません」

西「私、残ってゆかないものへのいとおしさも感じていて。以前、中国に行った時、公園でお爺さんが書道の練習をしていたんです。文字に使ってるのは墨じゃなくて真水。とっても綺麗な字だけど、書いたそばから乾いて消えてゆくんです。それを見て、めっちゃ感動しました。ものを書くことの理想は、これかもしれへんと。言葉は本来、消えてなくなるもので、だから美しいんじゃないかな。でもそれをなんとか形にして残そうと、もがいてる……ものを書く者としての矛盾は、私はずっと抱えてゆくと思います」

後藤「相反する気持ちで、書いてるんですね」

西「そう。ちょっとネットを検索したら、ヨーロッパの詩人にも、それに近いパフォーマ ンスをしてる人がいるんです。砂に詩を書いて、書いたそばからバッと消してしまうらしい。きっと私と同じこと考えてる。言葉を残すのが、ほんまは恥ずかしくてしょうがないんやろうなと。でも書きたいのは書きたいから、書き続けるしかなくて……めっちゃもどかしい。後藤さんは歌詞を書くときは、どんな感情なんですか?」

後藤「歌詞は発語されることを目的として書いていて、書物の形に残る小説とは、基本的 な部分で少し違うかもしれない」

西「なるほど」

後藤「ただ歌詞には、語彙も方法も必要です。思っていることを表現するのは、技術しか ないと思ってます。うまく言えないけど……楽器を弾けない人は、音を出せないんですよ」

西「ん?」

後藤「音を出せないというか、表現に限界がある。楽器が上手いから表現が伝わるという わけではないんですけど。どう言ったらいいかな」

西「伝えられるか、伝えられへんかってこと?」

後藤「そうです。表現を伝えるにおいて、やっぱり手が動くに越したことはない。以前、 吉本隆明さんが著作で、“表現”とは『精神と技術という横糸と縦糸で編んだ布だ』みたいな言い方をしていました。その通りだなと。僕たちミュージシャンは、どちらかというとメンタルな部分――精神性に頼ってしまうので、もっと技術を上げないことには小説に太刀打ちできない。小説が実現している言葉のフィールドに、どう肉薄していくかは、僕らの課題のひとつです」

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西加奈子

西加奈子(にし・かなこ)

1977年テヘラン生まれ。カイロ、大阪で育つ。関西大学法学部卒業。04年『あおい』でデビュー。05年、2作目の『さくら』が社会的ベストセラーとなる。07年『通天閣』で織田作之助賞受賞。他の著書に『きいろいゾウ』『しずく』『こうふく みどりの』『こうふく あかの』『窓の魚』『うつくしい人』『きりこについて』『炎上する君』『白いしるし』『円卓』『地下の鳩』など。共著に『ダイオウイカは知らないでしょう』他。12年、大阪市『咲くやこの花賞』を受賞。

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