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人間としての復興

岩手県出身、フォトジャーナリストの佐藤慧は自身も震災によりかけがえのない存在を失った。工事が進み街の様子が激変する一方にある震災を経験した人々が抱える葛藤、そして時間の流れについて想いを馳せる。

文・撮影:佐藤慧

どこまでも続く瓦礫の中で

 〝復興〟とは何だろうか。あの日からずっと、そんなことを問い続けている。

 「日本で大変な災害が起きたらしいぞ!」

 当時アフリカ大陸の南に位置するザンビア共和国に取材に出ていた僕は、誰かが発したその声でテレビをつけた。そこに映し出された光景は、とても現実のものとは思えないものだった。それは、黒く大きな得体の知れない何かが、物凄い勢いで街を呑み込むところだった。テロップにはTSUNAMIの文字。画面の端にはまだ、車で避難をする人々の姿も見える。無事に逃げ切れるのだろうか。画面が切り替わり、そこでは製油所に並んだいくつもの丸いタンクが黒煙とともに炎を上げている。一体日本で何が起きたのだろうか。ニュースキャスターは日本地図を示しながら、それが東北沖を震源とする大地震だと説明する。列島の輪郭には太平洋沿岸の北から南まで、津波警報を示す赤い線が引かれていた。再度映し出された現地の映像では、海と境界線のなくなった街中に、船と車と、大量の瓦礫が浮いている。そこに人間の姿は見当たらなかった。

 即座に思い浮かべたのは両親のことだった。岩手県沿岸の街、陸前高田市に住んでいる両親は無事だろうか。僕自身は岩手県内陸の街、盛岡で生まれ育ったため、〝津波被害〟などというものは想像したこともなかった。津波なんて、所詮は水じゃないか。どこかでそう思っていたのかもしれない。大丈夫、人間には足があるんだ。きっとすぐに避難して安全なところにいるさ。しかし、陸前高田市の情報はどこにも見つからない。すぐ南の気仙沼市、北の大船渡市の被害は確認できた。しかし、その両市に挟まれた陸前高田市の情報だけがすっぽりと抜け落ちている。それは〝両市と比べたら被害が少ないため報道されない〟か、〝誰も状況を報告できないほど圧倒的に壊滅した〟か、そのどちらかの可能性を示していた。そして、現実は後者だった。即座に帰国し、岩手に向かって北上した。その間、行方不明者数は増え続け、ラジオの声は死者の名前を延々と読み上げていた。そこに大切な人々の名前がないか耳を澄ませる。父から電話があったのはその時だった。当時県立高田病院の副院長を務めていた父は、その4階建ての建物の最上階で、患者を屋上に避難させようとしている時に津波に呑まれたという。奇跡的に一命を取り留めた父は、その後被災者の緊急医療に奔走していたが、数日後には精根尽き果て倒れ、内陸の病院に搬送された。

 「母さんの安否はわからない、きっともう・・・」。そう悲しげに呟く父の背中を押し、陸前高田市へと向かった。「大丈夫、絶対に母さんもどこかに避難して無事でいるよ」。現実に揺れを体感し津波に呑まれた父とは違い、僕はまだどこか被害を楽観視していたのだろう。しかし、たどり着いたそこに街は無かった。街は真っ黒に塗り潰され、ひしゃげた車と折れた電柱が、果てしなく続く瓦礫の山に刺さっている。遠くで悲しげに舞うウミネコの鳴き声に交じり、数え切れないほどの人間の死が、鼻腔の奥を突く不快な臭いとなって空気中を漂っていた。すぐに遺体安置所となっている小学校へ向かう。静まり返り、仄かな懐中電灯に照らされた体育館の床には、泥にまみれた沢山の遺体が横たわっていた。母の姿はない。その後何度となく安置所に通い、幾百もの遺体の顔を覗き込んでは、母の面影を探した。日が経てば、遺体は腐食を始める。人間も死んだら腐るという当然のことに、脳髄が痺れるように痛んだ。どこにも母の姿を見つけることができず、きっと海に流されてしまったのだろうと諦めかけた矢先、警察から連絡があった。母が見つかったのは地震から1ヵ月後、海岸から9キロも離れた、川の瓦礫と泥の底だった。

決して埋めることの出来ないもの

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火葬場から天へと昇る母。その体は風へと溶けていった。

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母の葬儀を終えた後、父の目には深い悲しみと愛が同時に浮かんでいるように見えた。

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数百の身元不明遺体が並ぶ。このひとつひとつを覗き込み、大切な人の姿を探す。

 あれから何もかもが変わってしまったように思えた。数え切れないほどの遺体。耳を覆いたくなる話。目に映る世界は色彩を失い、〝生〟を覆い尽くす〝死〟の影が、ますます強く濃くなっていく。時計の針が進んでも、自分の周囲の時間はあの腐臭の中に閉じ込められてしまったかのようだった。「感情が死んでしまったようだ」と、父は言った。生涯の伴侶を失った父は、震災のトラウマから陸前高田市に近づくこともままならなくなり、親族の住む栃木へと居を移した。「本を読んでも、映画を見ても、何も感じない。大好きだったカメラや天体望遠鏡にも、触れる気にすらならない」。くだらない駄洒落が好きで好奇心旺盛、どんなことでも話し始めると熱くなってしまう以前の父はそこにいなかった。酒の量は増えたが口数は減り、遠くを見つめることが多くなった。〝復興〟という言葉があちこちで叫ばれたが、僕はその言葉の意味を捉えきれないでいた。なぜ〝復旧”ではないのか。それはそこに、決して取り戻すことのできないものがあるからだ。どれだけ街を元通りにし、経済を立て直したとしても、失われた命を取り戻すことは誰にもできない。そこにはコンクリートでは埋めることの出来ない大きな穴が空いている。では、〝復興〟へと手を伸ばすには、一体何が必要なのだろう。

 あれから4度目の春を迎え、小学生は高校生になり、中学生は大学生になった。街の瓦礫は姿を消し、津波を遮る巨大な防潮堤作りと、低地に土を盛り嵩上げをする工事が続いていた。そんな春が過ぎた矢先の7月、父が亡くなった。突然の訃報だった。朝、起きてこないので様子を見に行くと、既に息を引き取っていたという。2015年12月25日に復興庁の発表した震災関連死の資料によると、同年9月末の時点でその数は3407人とされている。〝震災関連死の死者〟とは、「東日本大震災による負傷の悪化等により亡くなられた方で、災害弔慰金の支給等に関する法律に基づき、当該災害弔慰金の支給対象となった方」(実際には支給されていない方も含む)と定義されている。しかしその数字に父の死はカウントされていない。届出をしていないから当然だが、そもそも〝震災関連死〟とはどこまでを含むのだろう。震災当時の傷が原因で亡くなった方というのなら、心に負った傷により憔悴した人間もまた、広義の意味では含まれるのではないか。

 突然やってくる死という出来事に、自分の無力さを責めてしまう人々がいる。父もまた、そういった人間だった。医師として生きることを誇りとしていた父にとって、震災後の陸前高田市に戻り、医療活動に従事できないことは大きな苦しみだったに違いない。何度も戻ろうとしては、体の震えを押さえることができずに断念した。現地で生活を続ける人々に、申し訳ない気持ちで一杯だったという。3年経ち、4年経ち、徐々に報道は減り、震災と言う言葉も耳にする機会が減った。世界では様々な出来事が起こり、日々は目まぐるしく移り変わる。相変わらず被災地では出口の見えない様々な問題を耳にすることが多いが、それらは報道されない限り〝社会の問題〟と認知されることはなく、〝個人の問題〟として社会からは切り離されてしまう。「それは自己責任だ」「それはあなたが弱く、努力もしないからだ」。震災の問題に限らず、社会全体にそのような重圧がのしかかっているように感じる。「まだ立ち上がれない自分は、前を向けない自分は、弱い人間なんじゃないだろうか、ダメな人間なんじゃないだろうか」。うなだれた父が、ぽつりとそう呟いた。

心の刻む時間に耳を澄ます

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震災により亡くなった方の死を悼む。そこには静謐で美しい時間が流れる。


 何をしてても、していなくても、時計の針は刻まれる。目まぐるしく移り変わる社会と、足を絡めとられたように動かない心の時間。陸前高田の市街地には、つい最近まで巨大なベルトコンベアーが設置されていた。海を望む山を削り、その土を利用して市街地を嵩上げする工事が続いているのだ。震災当時の瓦礫は姿を消し、人々の思い出が刻まれた土地は見たこともない茶色い景色へと様変わりした。「薬がないと寝られない」と、どこか後ろめたそうに話してくれた人がいる。「5年も経つのに、心は憔悴していくばかり」だと。5年、それは確かに短い時間ではない。そして、これまでの5年間で歩んできた道を思うと、これから先の5年、10年を考えてしまい不安になってしまうという。あれだけ多くのものを失ったのに、なお日々何かが失われていくような怖さがある。「この人はとても逞しいし大丈夫だ」と、勝手に安心していた人の口からそんな言葉を聴くと、それがいかに浅はかな考えだったか身に染みる。

 今年1月に襲った暴風雨で、復旧工事の完了した防潮堤の一部が決壊した。沿岸各地では、次の津波に備えた防潮堤の復旧、新設工事が進んでいるが、津波にも満たない波によって、崩れ落ちてしまったものがあるのだ。〝手抜き工事〟かと思ったが、真相はそうではない。復旧した防潮堤の〝土台〟そのものが、震災によって深刻なダメージを負っていたようだ。脆い土台の上に立派なコンクリートの壁を築いても、それは所詮メッキに過ぎない。表面上、どれほど強固に、立派に見えていても、深いところに刻まれた傷はいつか姿を現す。確かに街は姿を変えた。多くのダンプが行き来し、大掛かりな工事があちこちで行われている。全壊した高校の校舎も新設され、立派な市民ホールも完成した。しかし街の〝土台〟はそこに生きる人々なのだ。その〝土台〟となる心の〝復興〟には、時計の針や経済指標では示すことのできない〝それぞれの時間〟が必要だ。そこで見出す答えもまた、人によって異なるだろうし、必要な時間も違う。それは時計の針で刻まれる均一な時間ではなく、心の中で、音もなく変容していくプロセスなのだ。それぞれの人が、それぞれの答えを得て「生きていこう」と力強く思えるとき、それがきっと〝復興〟への一歩となり、明日への礎となる。それは個々人の問題に思えるが、人々こそが社会の土台であるという前提に立てば、結局は社会全体の問題であると気づく。いまだ多くの悲しみ、苦しみを抱える沢山の人がいる。その多くが、時計の針に急かされ、心の傷と十分に向き合う時間を持てずにいる。それぞれの中で刻まれる、その静謐な針の音にそっと耳を傾けること。それがきっと「復興とは何だろうか」という問いに対するひとつの答えへと繋がっている。

(2016.8.20)
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暮らしかた冒険家

佐藤慧(さとう・けい)

1982年岩手県生まれ。フォトジャーナリスト。世界を変えるのはシステムではなく人間の精神的な成長であると信じ、紛争、貧困の問題、人間の思想とその可能性を追う。言葉と写真を駆使し、国家-人種-宗教を超えて、人と人との心の繋がりを探求する。東日本大震災以降、継続的に被災地の取材も行っている。2011年世界ピースアートコンクール入賞。著書に『Fragments 魂のかけら 東日本大震災の記憶』(かもがわ出版)、他。東京都在住。