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松田“CHABE”岳二

ソロ・プロジェクトのCUBISMO GRAFICO、バンド・スタイルのCUBISMO GRAFICO FIVE、リミキサー、ギャラリーを主宰、数々のバンドのライブ・サポートも務めるなど幅広く活躍する松田“CHABE”岳二。加えて松田は、渋谷Organ Banでのレギュラーナイト「MIXX BEAUTY」をはじめ、三宿web他、CLUBでのDJで現場を大切にした活動を展開中。そんな松田にとってのDJとは? クラブとは? レコードとは? レコードとの出会いから自身の音楽スタイルまで話を聞いた。

取材・文:石井恵梨子/撮影:山川哲矢

もともとクラブが好きだったんですよ。格好いい人がいっぱいいると思ってた。

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――チャーベさんは、最初からレコードがあった世代ですよね。

チャーベ「そうですね。僕らの頃はちっちゃいときにソノシート付きの絵本とか売ってて。ああいうのが多分最初じゃないかな。親もレコードを少しは持ってましたし。自分で最初に買ったのも『銀河鉄道999』とか、あと小学校のときにはゴダイゴとか聴いてましたね」

――レコードにまつわる強烈な記憶って何かありますか。

チャーベ「あー……中学に入ってマドンナがデビューして、近所のレコード屋さんで予約したんですよ。そしたらクラスの女子にものすごいスケベ扱いされたっていう(笑)。マドンナ、僕は恰好いいなぁと思ってたんだけど。でもまぁ『ライク・ア・ヴァージン』だし、すっごいエロ扱いされた(笑)」

――ははは。もともと洋楽に対してもアンテナは鋭いほうだったと思います?

チャーベ「どうなんですかね。でも僕らの頃は洋楽が流行ってましたね。テレビでもそういう番組があって、プリンスとかマイケル・ジャクソンの『スリラー』とか、ああいうのはみんな聴いてた気がします。MTVが始まった頃だし、洋楽、普通の田舎の中学生でも聴いてたんじゃないかな」

――80年代のヒット曲を。そして、80年代末期にアナログからCDへと移行する流れが始まりますね。

チャーベ「そうですね。高校生の頃。でも僕はパンクが好きになったんで、パンクのものってなかなかCDがないじゃないですか。当時、中3か高1の頃だと思うんですけど、ユニクロの1号店が近所にできたんですよ」

――あ、そっか、本社は西日本ですよね。

チャーベ「うん。広島の町中に1号店ができて。その広告が朝の新聞に入ってたのかな。そこにセックス・ピストルズって書いたレコードが載ってて。輸入盤を扱ってたんですよね、ユニクロの1号店は。オリジナルの服のほかに輸入の雑貨とかスニーカーとか、レコードもあるセレクトショップみたいな店で。そこにインポートのカット盤が1500円くらいで置いてあって。俺はそれまで日本盤しか知らないからレコードって3000円するものだと思ってたけど“1500円で買えるんだ? どうしても聴きたい!”って。それで姉貴と一緒にオープニングの日に並んで買いに行ったんですね。そしたらピストルズはもう売れてなかったけど、クラッシュがあって」

――何を買ったんですか。

チャーベ「ファーストです。で、聴いたら……姉貴が聴いてたアナーキーとそっくりな曲が入ってる!」

――はははは。『白い暴動』(※1)!

チャーベ「知らないじゃないですか、それまで(笑)。でもそこからどんどん好きになっていって、輸入盤屋さんの存在も知って。だからパンクのレコードばっかり。CDっていうのは自分の中の選択肢としてなかったんですよね。自分で作るまでなかったです」

――そんなに? ずっとアナログオンリーなんですか。

チャーベ「うん。若い頃はお金もないから、“CDプレイヤーを買うならレコードを買うよ”っていうのもあったし。あと、DJを始めるとレコードしかかけられない状況なんですよね。今みたいにCDJが使いやすくなったの、2000年ぐらいからじゃないですかね。だから、単純にツールとしてレコードしかなかった。DJだし、音楽好きだし、古い盤を探し始めるとCDは出てないじゃないですか。それしか選択肢がなかったというか」

――ちなみに、DJを始めたきっかけってどんなものだったんですか。

チャーベ「友達に誘われたんです。僕はスカとパンクのレコード買ってて、広島の先輩から“イベントやるから夏休みに帰ったときにレコード持ってきてよ、DJやろうよ”って誘われて。そこでかけたのが最初」

――やってみたときの気分はどうでした?

チャーベ「いや……なんか、大貫(憲章)さんみたいな、すごいDJを東京でいっぱい見てたから。“真似っ子してすいませーん”みたいな感じ(笑)。東京のクラブで流行ってるヒットソングも、広島でかけると“なんかこれすごい恰好いいね”って。インターネット時代じゃないから時差があって。僕、東京では素人なんだけど、広島のド素人を騙してる感じでしたね(笑)」

――いわば本当に真似から始まったDJスタイル。

チャーベ「そうですね。もともとクラブが好きだったんですよ。恰好いい人がいっぱいいると思ってた。それこそ(渡辺)俊美さんみたいな人がいて。ひとりで行って、あ、あの人『セルロイド』(※2)の俊美さんだ……と思ってたら、トコトコ寄ってきて“どっから来たの?”声かけてくれたり。そういうお兄さん、お姉さんがいっぱいいて、その仲間に入りたかったんですよね。当時は楽器もできなかったし、ライブハウスよりクラブが楽しかった。それこそバンドブームだったけど、俺はDJのほうが格好いいと思ってて。DJが楽しくてしょうがなかった」

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Chocola&Akito

松田“CHABE”岳二(まつだ“ちゃーべ”がくじ)

1970年、広島県生まれ。ソロ・プロジェクトのCUBISMO GRAFICO、バンド・スタイルのCUBISMO GRAFICO FIVE、キーボーディスト・堀江博久とのユニット、ニール&イライザ、DJ、リミキサーとして活躍中。また、FRONTIER BACKYARD、LOW IQ 01のライブバンドMASTERLOWのサポートも務める。2001年には、映画『ウォーターボーイズ』の音楽を手掛け、第25回日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞。渋谷Organ Banでのレギュラーナイト「MIXX BEAUTY」をはじめ、三宿web他、CLUBでのDJで現場を大切にした活動を展開。また、原宿でkit galleryを主宰。

■注釈

(※1)『白い暴動』

ザ・クラッシュの1stアルバム。1977年のイギリス盤、1979年のアメリカ盤(おまけのシングル付き)の2種類がリリースされた。

(※2)『セルロイド』

1984年、ラフォーレ原宿にオープンした、レコードやサングラス、帽子、雑貨など好きのものだけを取り扱うショップ。1994年にはオリジナルブランド「エマニエル」をスタート。 1997年、ブランド名を「DOARAT」に変更し、1998年9月13日にラフォーレ原宿より移転し、路面店をオープン。渡辺は、1984年から1990年代のストリートファッションに通じる活動をしていたことから、ストリートファッションの火付け役と言われている。