THE FUTURE TIMES

新しい時代のこと、これからの社会のこと。未来を考える新聞

私たちを縛る“普通”からの解放 温 又柔 x 後藤 正文

台湾出身、日本育ちの作家、温又柔。
台湾語、中国語、日本語を行き来しながらユニークな創作活動を続ける彼女と語り合う、言葉をめぐるさまざまな境界について。
国籍や母国語とは何か、そして、言葉はいったい誰のためのものなのか――

構成/倉本さおり 撮影/中川有紀子

「真ん中」を生きる者たちの視界

後藤 「温さんの小説『真ん中の子どもたち』を読んで興奮して、その後ですぐにエッセイ『台湾生まれ 日本語育ち』を読みました。本当におもしろかったです。たとえば、母国語と母語の違いとか。ご両親は台湾人で、温さん自身は日本で育った。だから、日本語で考えて日本語を話すけれど、母国語とは言い切れない。しかも台湾国籍について語る場合には中国との関係や政治的な問題もある。温さんの立っているところはとても難しいですよね、言語化するのが」

「立ちながらつま先がプルプルしてます、いつも(笑)」

後藤 「正直、僕にはうまく想像できない部分もあるんだけれど、だからこそ余計に興味深かったです。この本が狙っているのは、日本語だけにとどまらない、ものすごく大きなテーマなんじゃないかと思って。実は僕、芥川賞とかの選評を読むのが昔から好きなんですよ。〝ああ、この人はひどいこと言ってるな〟とか思いながら(笑)」

「あはは。それなら、『真ん中の子どもたち』の選評もおもしろかったでしょう? ものすごくひどいのが交じってたから(笑)」

後藤 「この小説って、本文中に中国語が挟まれたり台湾語がカタカナでそのまま交じったりするじゃないですか。たぶん選評での心ない感想は、単純にそういうところで入り込めなかっただけなんじゃないかなって。僕も最初は戸惑いながら読み進めたんですが、そうした部分にこそ、引き裂かれている人たちのアイデンティティが表れているんだってわかったときにものすごく惹き込まれたんです。この時代にふさわしいテーマだし、これからの時代を生きる人たちみんなが直面する問題に繋がっていると感じました」

「後藤さんがそう受けとめてくださること、ものすごく嬉しいです! 自分にとって自然な状態を言葉で表現しようと思ったら、そうならざるを得なかったんですよね。ただ、この書き方と出会うまでは時間がかかりました。私が読んできた日本の小説って9割以上は日本語だけで書かれていたんです。あたりまえだけど。でも、私が自分の育った環境を描写しようとすると、実は日本語だけではおさまらない。そういう自分の〝日常〟を小説をとおして自分以外の人に伝えたかったし、伝えることで分かち合いたかった。だから本来ならば、日本語だけでは言語化できない状況を、日本語そのものの幅を信じてどうにか言語化しようという、今思えば非常にアクロバティックな挑戦でした」

「日本人」イコール「日本語人」?

後藤 「音楽をやっていても思うんですが、国籍って、実際のところはなんのことなのかよくわからないですよね。たとえば僕自身は、自分のアイデンティティというものがどこにあるのかなって考えたときに、日本っていう国よりは、やっぱり日本語によって保証されているなって思うんです。日本語で物事を考えるから、っていう部分が大きい。だから、どちらかというと日本人っていうよりは〝日本語人〟みたいな感覚。温さんも、国家という概念に縛られない時代にもし生まれていたら、全く考え方が違っていたんじゃないかなとも思うんですよ」

「そうですね。今の状況って、私が自分としてはナチュラルに自分を表現しやすい言葉でしゃべってるつもりでも、非日本人だから非難されるっていうことがたまにあるんです。たとえば、〝日本はちょっと窮屈だよね〟と私がTwitterでつぶやくと、〝おまえが言うな〟とか〝外国人は黙ってろ〟みたいなリプが来る」

後藤 「ひどいですね……」

「こっちとしては自分も日本社会の一員のつもりでつぶやいた内容が、〝日本語〟イコール〝日本人のもの〟だと思い込んでいる方々からしてみたらしゃく癇に障るらしく、〝外国人〟が日本の文句を言ってるように見えるらしいんです。だから最近は、何かあれば、自分のあいまいな境遇を利用しつつ、〝日本人ってなんだろう?〟っていうことを考えさせる余白を残すかたちでつぶやくようにしています」

後藤 「そういうところに揺さぶりを掛ける文章って、今まさに必要だと思います。みんな、そこにしか寄り掛かるところがないかのように国家っていうものを扱いがちというか。〝国家とは何か〟っていう問いを、なぜかみんな持とうとしない」

「そう。大多数の日本人は、日本人としての自分のアイデンティティが何か揺るぎのないもののように思い込まされている気がします。国の話が出てくると思考が硬直して身構えちゃう。でも本当は、男とはこうあるべき、とか、学生はこういうものだ、とか一方的に決めつけられたら誰でも、やだなあ、ってなると思うんです。他人が勝手に決めた何かのカテゴリーと生身の自分の感覚がそんなにすんなり合致するとは限らない。個人って複雑だし、ひとつの言い方だけでは表現しきれないものでしょう? 私が国と個人の関係はもっと自由なんだよと訴えるときって、根っこにそういう思いがあります。だからか、私の本を読んで元気になったって言ってくださる方って、他人から何かを押し付けられるのが嫌な人が多いんですよね」

後藤 「なるほど、僕もそうです(笑)。つまり既成の感覚というか、概念みたいなものに揺さぶりを掛けてくれるんですよね、温さんの文章は。日本の学校って、ありもしない〝普通〟を養成して、ちょっと変わっている人間を弾く場所になってるじゃないですか。その先では排外主義とか、ヘイトクライムとも繋がっているような気がするんです」

「そうなんですよね。日本の学校って、よくもわるくも〝普通〟を教え込む場所だなって思います。私にとってはそれが〝日本人〟と重なってしまった……自分の中の日本人っぽくない部分は普通じゃないというコンプレックスがありました。さらに言えば、日本語は日本語なんだからほかの言語が交ざったらおかしいとも思ってました。今の自分が、中国語や台湾語を織り込んだ日本語で書くのは、学校で学んだ〝普通〟の日本語の縛りから抜け出せたからです」

言語は「眼鏡」である

温又柔

「日本人には、自分の母語が日本語であることはあらかじめ定められた運命のように思っている人が多い気がします。だから私は、自分や祖父母が生きてきた道のりを書くことで、その運命が実はもっと偶然に近いものだっていうことを感じてもらいたいんです。こういうことを考えるとき、実は自分の中で象徴的だなと思う体験があって。それは自分が、ドラえもんが日本語でしゃべるのを、直接、聞きながら育ったということ! だから私にとってドラえもんって大山のぶ代さんの声じゃないと落ち着かないんです。ドラえもんって台湾でも大人気でアニメも放送されてる。だから台湾で育っていたとしても、私はドラえもんが好きだった可能性はすごく大きい。ただしその場合、中国語吹替で聞いていたはずだから、今みたいに、ドラえもんの声といったら大山のぶ代でしょ、みたいな感じではなかったと思うんです。その逆がジャッキー・チェンで。私、ジャッキー・チェンは、本人の声よりも石丸博也さんの声のほうがずっとしっくりくるんですよ」

後藤 「僕もジャッキー・チェンは石丸博也さんの声じゃないとピンとこないです(笑)」

「でしょう(笑)。私は台湾人だけれど、のぶ代さんと石丸さんの声でドラえもんとジャッキーを受容しちゃった。これはもう譲れません」

後藤 「そうなんですよね。僕だったら、エディー・マーフィーは下條アトムさんの声のほうがしっくりきますし(笑)。吹き替え版の声のほうが馴染んじゃったりすることってよくある」

「今の自分は、大山のぶ代と石丸博也のドラえもんとジャッキーにリアリティを感じてるけど、それはたまたま私が日本で育ったからなんです。台湾で育っていたら、台湾のドラえもんや、中国語や広東語をしゃべるジャッキーのほうにリアリティを感じていたと思う」

後藤 「それすごくいい指摘ですね。つまり、僕たちが日本語を使ったり、他の言語を選んでいる理由って、吹き替えの人がたまたまその人だったからっていうのと同じぐらいのことなのかもしれない」

「そう。私は言語って眼鏡みたいなものだと思うんです。生まれたときにたまたまかけさせられた眼鏡が日本語だったり英語だったり中国語だったりするだけで、実は自由にかけ替えられるはずのものなのに、その眼鏡が一体化しちゃって、自分の裸眼みたいに思い込んじゃうのがもったいないなって思って」

後藤 「でも多くの人は、複数の言語を行き来する機会がないからそのことに気づかない」

「ええ。ただ、私も複数の言語を器用に行き来してる感じは全然なくて。むしろ自分は日本語だけで生きてるつもりなのに、中国語や台湾語がノイズのようにまぎれこんでくるのが嫌だった……でも、中国語や台湾語をたっぷり含んだ日本語こそが自分の言葉なんだと気づいたとたん、ノイズだと思っていたものが急に輝きはじめるんです」

後藤 「それ、エッセイの中にも書かれてますよね。〝ちゃんぽんであることが私なんだ〟って。僕はそうした体験をしたことがないから想像しにくいというか、そこに感情移入はやっぱりできないんだけれど、だからこそいいなと思いました」

「すごくうれしいです。たぶんこういうことって言語の話に限らないと思うんですよね。たとえば、ある基準から外れるというか、ずれてしまうようなことって誰の身の上にも起きることだから。そういうときに、自分の感覚を信じられるのならいいけど、基準のほうに従おうと無理してしまうことがある。私が普通の日本語を話すために台湾語や中国語をノイズとして排除しようとしたみたいに……」

後藤 「なるほど。温さんの体験自体が比喩だよっていうことですよね。もっと広い場面に適用できることだっていう。たとえば、それはある種の宗教なのかもしれないし、いろいろなコミュニティの価値観だったりするかもしれない」

「いっそ、自分自身がノイズになっちゃえば、同調圧力から逃れられて、楽になれるかもしれませんよね」

表紙
温 又柔(おん ゆうじゅう)

1980年生まれ、台湾・台北市出身。3歳のときに家族とともに東京へ引っ越し、台湾語、中国語、日本語の飛び交う家庭に育つ。09年に『好去好来歌』で作家デビュー。15年に刊行したエッセイ『台湾生まれ 日本語育ち』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞し、17年の『真ん中の子どもたち』は芥川賞候補となり話題になる。最新刊は『空港時光』。音楽家・小島ケイタニーラブとのコラボレーションによる朗読と演奏も行なう。

真ん中の子どもたち(集英社・2017年)

台湾人の母と日本人の父のもとに生まれ、幼い頃から東京で育った琴子は、中国語を勉強するために上海に旅立つ。日本、台湾、中国という3つの国の真ん中で、自分たちの生き方と言葉のあり様を模索する若者を描く群像劇。

台湾生まれ 日本語育ち(白水Uブックス・2018年)

3歳のときに家族で台湾から東京へ移住し、台湾語、中国語、日本語の入り交じった環境で育った著者によるエッセイ集。3つの言語のあいだで揺れ、戸惑いながら、自分自身のルーツを探った4年間の軌跡を綴る。