東日本大震災から3年が経過した今、被災地の状況はどのように変化してきたのでしょうか。
福島第一原発から3キロメートルの帰宅困難区域、大熊町。
この地で行方不明の娘を捜し続けるひとりの父親と仲間たちを追った、フォトジャーナリスト・渋谷敦志の記録。
木村さんの娘さんで行方不明の汐凪ちゃんが通った熊町小学校。
大熊町熊川地区に一時帰宅した際にお墓参りをする木村さん。
南相馬市原町の萱浜地区。津波で77人もの死者・行方不明者が出た。
木村さんの娘・汐凪ちゃんの生きた証を探す、上野さんと仲間たち。
どういう風の吹き回しか、小学校に上がる前の娘が「魚釣り名人になりたい」と言うので、家のすぐそばの海水浴場で一緒に釣竿を垂らした。なぜ急に魚釣りなんて言い始めたのだろう。娘との日々を思い出しながら海辺を歩く木村紀夫(のりお)さんは、あの日から三年の歳月が流れた今も、娘が生きた証を捜し続けている。
東京電力福島第一原発の事故で全町民が避難している福島県大熊町(人口約1万1000人)。町の大半が年間積算放射線量50ミリシーベルトを超える、帰宅困難区域だ。原発から3キロメートルほど離れた熊川地区に住んでいた木村紀夫さんは、あの日の津波で父の王太朗(わたろう)さんと妻の深雪(みゆき)さん、そして次女の汐凪(ゆうな)ちゃんを失った。王太朗さんと深雪さんは遺体で発見されたが、当時7歳だった汐凪ちゃんは行方不明のままだ。震災翌日には、原発の爆発を受けて避難指示が出されたため、木村さんは生き残った母の巴(ともえ)さんと長女の舞雪(まゆ)ちゃんを連れて福島県外への避難を余儀なくされた。
王太朗さんが見つかったのは震災後、49日経ってからだった。しかも自宅の前の田んぼで。6月には深雪さんも見つかった。自宅から50キロメートルも離れた洋上で警視庁のヘリコプターに発見されたという。木村さんの元に帰ってきたときはすでに荼毘(だび)に付され、骨壺に入った状態だった。
原発事故がなければ、父は49日も雨ざらしにならずに済んだのではないか。原発事故がなければ、妻は50キロメートルも流されずに済んだのではないか。原発事故がなければ、娘を捜し出せる確率が高かったのではないか。
「原発ふざけんな」
木村さんの憤りは今も消えない。
大熊町でいまだに行方不明なのは、汐凪ちゃんただ一人だ。「1という数字に意味がある気がして。死亡届は出してないし、出す気もない」。
「一体、何やってんだ、ニッポン! 東北を復興だとか絆がどうとか言ったって、ひとりのお父ちゃんを助けられないで何を言ってんだ!」
木村さんがひとりで娘を捜し続けていることを知った上野敬幸(たかゆき)さんは、声を荒げた。福島県南相馬市に住む上野さんもまた、木村さんと同じように津波で家族を奪われていた。母と父、娘と息子の4人も。父と3歳だった息子はまだ見つかっていない。上野さんは地元の消防団員だった仲間と一緒に『福興浜団』という団体を立ち上げ、沿岸部で行方不明者の捜索活動を続けている。
木村さんが上野さんを訪ねたのは2013年3月だった。木村さんの故郷の熊川地区では津波で家族を失ったのは木村さんだけだったため、語り合える遺族が身近になく、孤立感を覚えるようになっていた。家族を捜し続ける上野さんの姿は、同じ境遇の木村さんから見ても「辛くなるくらい」だったが、家族を失った悲しみをまっすぐ言葉にする上野さんには、初対面にも関わらず気持ちを素直に打ち明けることができた。
娘を捜してほしい。でも、たったひとりのために、無駄に放射線を浴びせてまで他人に捜索してもらうことは申し訳ない…。
木村さんがそう思わざるを得ないことが、上野さんには許せなかった。
「子供を見つけたいと思うのは父親なら当たり前だろう。それを人にお願いするのを申し訳なく思わなきゃいけないなんておかしい」
上野さんは木村さんに、いつでも捜索に協力する準備があることを伝えた。2013年5月以降、帰宅困難地域への一時帰宅は3ヵ月に一度から1ヵ月に一度に見直され、上野さんたち浜団の仲間が木村さんの捜索を手伝うようになった。