津波のあとの町。南三陸町で子供たちのための学習の場をつくってきたひとりの女性がいる。中高生の日常の一部となり、未来を見つめるきっかけとなるような場所が生まれたきっかけと、この後の町の未来について。
宮城県北東部の南三陸町には、志津川小学校、志津川中学校、志津川高校が建ち、3校を結ぶと正三角形が描かれる。『TERACO』は、その中心部に居を構える自習支援施設だ。代表を務める小楠あゆみさんとボランティアの大学生によって、2011年4月から始まった。
「とにかく何かしなくてはと、東京から南三陸町にやってきました。4月当時、私は志津川小学校体育館の避難所で支援物資の配給を手伝っていたのですが、近隣の被災地と比べて南三陸町の始業式は遅かったんですね。まだ体育館にいる子供たちを見ながら、ボランティアで来ていた大学生が子供たちに勉強を教えてあげるよう、結びつけていったんです」と小楠さんは当時を振り返る。
勉強道具はない。インターネットも繋がらない。電話帳のメモ用紙ほどの紙を集め、計算問題や英語の和訳を教えた。電気の通らないなか、陽の昇っている時間を使ってTERACOの原型はできあがった。
静かで落ち着いた図書室の空間は誰もが利用したくなる。
震災前も音楽スタジオがなかった南三陸町。この変化は大きい。
大学生ボランティアはそれぞれのペースで南三陸町へ通う。
その後、南三陸『ホテル観洋』の一室を借りていた時期もあるが、〝学校から距離があることで通いにくくなってしまうため場所を移してほしい〟という要望を受け、2012年7月、現在の志津川字御前下エリアに移設した。
「TERACOがこの場所へ移ることが決まった際には子供たちの話を取り入れたプロットを組み、スポンサーを探しました。建物の骨組みをいただくことができて、地元の漁師さんやボランティアの協力に感謝しながら、利用する子供たちとともに内装を仕上げました。2ヵ月かかってやっと完成したんです」
TERACOには自習室の他、図書室と音楽スタジオが併設する。「勉強する場所と、ゆっくり本が読めるところ、騒げるところがほしい」。ここでも子供たちの声が形になった。
仮説住宅で暮らす子の多くは、直通バスで学校へ行き、帰ってくる。学校と仮設住宅の往復だけで思春期を終えていいのだろうかという、小楠さんの想いもあった。
「震災前は授業や部活動が終わってから、直行で家に帰る子ばかりではなかったはずです。友達の家やマクドナルド、ファミリーレストランのような〝立ち寄っていた場所〟が今は何もありません。ちょっとした溜まり場がみんなに必要なのではと感じました」
『ブックオフ』から寄贈された約1万冊の一部を所蔵する図書室には、小説や参考書だけでなく、漫画も備わっている。図書室は、自習室の席が足りなくなった際に教室としても利用されてきた。
また、音楽スタジオには楽器の他、アンプや全身鏡、カラオケが揃う。高校生バンドだけでなく、小学生が立ち寄ってネット配信用に踊りを撮影する姿も見受けられるそうだ。
「仮設住宅では、大きな声が出せません。こういうのって行政的には後回しにされがちなことなのですが、遊べる場所も作ろうと思ったんです」
音楽スタジオは建設費用のほとんどを小楠さんが負担した。近隣住民にも開放されており、就業後、練習に訪れる大人のバンドマンもいる。
自習支援を軸とした南三陸町のコミュニティを支えるプラットフォームとして、TERACOは徐々に人々の〝よりどころ〟となってきた。
TERACOが自習支援を始めて三年、進学を経た学生も少しずつ増えてきている。取材当日、学生の自習を見に来ていたタツヤくんもそのひとり。仙台の高等専門学校に通う2年生で、TERACOに通い始めた2011年の夏には中学3年生だった。
「受験は希望していましたが、津波被害で電車が通らなくなり、少し先の街の高校まで通学するのは難しくなって。周囲にも相談して、ならばいっそ、仙台まで出てしまおう、と今の学校を受験しました」
タツヤくんはここでの勉強を経て、自分の大好きな数学を多く勉強できる高専という環境を見つけ出したわけだ。
東京、仙台などの大学生が寄贈した赤本は
一番の刺激になる。
小中高が隣接する南三陸町では、近隣校への進学が常態だった。決して、学力の高い学校が集まっているわけではなく、町の学力への意識は乏しかったと小楠さんは話す。
「中学3年生で、分数を解けない子もいました。小数点を適当に打ったり、定理を1個も覚えていなかったりする子もいましたし、筆算部分を消して、答えだけ記入する子もいたほどです。筆算部分が加点に繋がることを知らなかったんです」
学力への意識の低さは、卒業後、家業を継ぐ子供が多くを占めていた影響でもあった。南三陸町は漁業が盛んな地域のため、学校の勉強をしなくても、働く場所は自ずと決まっていた。しかし津波の災害により、家業をたたまざるを得なくなった家庭も当然多い。
「今までは町のなかで完結していました。中学を卒業したら漁船に乗るという子も多くいたそうですし。それがすべてなくなってしまい、子供たちは働く場所を見つけなくてはいけなくなりました。けれど、町の外で働くとなれば、仙台や石巻の子と就職活動で競うわけです。私が何とかしなくちゃと思いました」
三年が過ぎ、学力への意識は少しずつ明るい兆しを見せている。
「二年前、センター試験を受ける学生はゼロでした。けれど、今年15人にまで増えたんです! もちろんTERACOだけの力ではありませんが」そう話す小楠さんの表情はとても明るい。
とはいえ、別の課題が山積するのも事実だ。TERACOの建つ志津川字御前下地区は区画整理の指定エリアに決まった。およそ一年後には移転の必要があるが、移転先は未定だ。また、二年目まで対象となっていた国の補助金がなくなった。現在、TERACOの運用費はなんとそのほとんどを小楠さんが負担している。
「一般的な事業では、中長期の計画を立て、年度予算を決めますよね。それがここでは真逆なんです。3ヵ月後、何が決まるかわからないなか、明確な予算を立てることはできません。また、支援金を頂いても項目適用外のことがあり、ランニングコストをどうやって立てていくのかは今後のとても大きな課題です」
小楠さんはTERACOを始めた当初、三年が過ぎて未だ仮設住宅で暮らす人々がいることも想像していなかった。
「阪神・淡路大震災では、三年も経てばほとんど街が戻っていたと聞いていました。だからいつ辞めても大丈夫な体制で運営してきたんです。でも、この調子で再生が遅いようなら、TERACOは今後も必要だと思いました。そうやっと確信できたのは2013年12月のことでした」TERACOを通して、全国各地から集まるボランティアの大学生とここへ来る生徒たちが出会う。今まで頭になかった大学進学という選択肢が、生徒にとって身近な物に変わっていく。自習室を飛び出して、課外授業を行うこともあると言う。
将来の夢はゲームクリエイターと語るタツヤくん。
ここへ来るひとりひとりを丁寧にケアする
大学生と小楠さん。
小楠さんは二年前の春休み、タツヤくんを含めた数人の生徒と東京の大学見学に出かけた。「厚意にしてくれている大学の教授や、教えにきてくれている学生に協力してもらって、研究室を見せてもらいました。あとは東京地裁に傍聴に行ったりもしました。昨年、弁護士志望の女の子がでてきたりもして」
大学進学の意志がなかった子供も、見学を機にセンター試験を受験するまでになったそうだ。実際に大学生に触れ、進路先を見ることで意識は少しずつ高まってきていた――。
TERACOの自習支援にはいくつか決まりがあり、〝教えるのではなく、伝える〟という方針もそのひとつだ。与えてもらうのではなく、自分のための勉強に自分で取り組む。建物の骨組みだけを受け取って、内装を自分たちの手で作ったことと一致する、TERACOの基本姿勢。
そんなTERACOには、〝TERACOポイント〟というポイント制度がある。1回この場所を利用するごとにひとつスタンプを押す事ができ、既に500個以上も貯まっている子がいるという。きっとTERACOに通うこと自体が楽しみとなっているのだろう。
TERACOも〝ポイント〟をひとつずつ貯めていくような三年を過ごしてきた。貯まったスタンプの数だけ、明るい未来が近づくように。NPO法人化を目指すTERACOは、今後は積極的に企業からの支援を受け付け、南三陸町の子供たちの将来に繋がる自習支援を続けていく。
TERACO
TERACOが位置するのは南三陸町の志津川エリア中心部。現在の場所からまた移転が予定されているが今後も中学生・高校生にとっての放課後の“場”としてニーズに応えていく。
住所:宮城県本吉郡南三陸町志津川御前下35-2
ブログ:http://ameblo.jp/f-teraco/