今を生きること福島第一原発から約22kmの地で生き、今も遺体捜索を続けながら故郷を再生しようと活動する上野敬幸さん。フォトジャーナリスト・渋谷敦志が出会い見つめた、あるひとりの父親の3.11から今日まで―
震災の日から一年を前にした2012年3月10日。僕は福島県南相馬市原町区の萱浜(かいはま)に到着した。海沿いの土手に立ち、色彩を失った荒野を見渡す。「あのへんであの人と最初に会ったんだよなぁ」。刺すように冷たい浜風を受けながら、震災直後のことを思い出していた。まだ一年なのか。もう一年なのか。時は流れている。けれど、ここに来ると、どうしても時計の針が止まったままのように思えてならない。
看板の先には確かな生活の匂いがあるのに、
そこに家がある住民ですら〝立入禁止〟なのだった。
3月11日はあの人といようと決めていた。上野敬幸(うえのたかゆき)さん。39歳。南相馬で最初に出会った人であり、彼の存在は脳裏にとりわけ強く焼き付いている。その上野さんが家族の一周忌に葬儀を行うという。
海岸から500mほど離れた萱浜は津波で住宅のほとんどが流されたが、上野さんの家だけがかろうじて原型を留めた。玄関には、上野さんの父親の喜久蔵(きくぞう)さんと母親の順子さん、そして当時8歳だった娘の永吏可(えりか)ちゃんと3歳だった息子の倖太郎(こうたろう)くんの写真がある。お線香をあげて手を合わせ、「またお邪魔しています、すいません」と挨拶した。このわずかな時間は僕の祈りであり、告白のようでもあり、粛然とした気持ちにさせてくれる儀式のようでもあった。
原型のみを留めた上野さん宅の玄関。両親と子供のためのお供え物。
市内の式場で営まれた葬儀は、最後の対面も出棺もないものだった。ご遺骨があるのは母親と娘だけで、父親と息子は見つかっていなかった。上野さんは「家族全員がそろってから葬儀を」と思っていたが、奥さんの貴保(きほ)さんと話し合い、震災から一年を前にお別れをすることにした。
「永吏可には3学期が終わって成績が上がっていたらDSを買ってやる約束をしてたけど、買ってやれなかった。倖太郎には、幼稚園の制服にすら腕を通させてやれなかった。助けてあげたかった。父親として自分の力不足です」。上野さんが絞り出した言葉は悔しさで満ちていた。
涙がこぼれた。機会があるごとに「被災地のことを忘れないでほしい」と伝えてきてはいたが、はたして自分は、忘れるも何も、その前にどれほどわかっていたのか。思い出の詰まった故郷が跡形もなく流された悔しさを。かけがえのない家族との突然の別れを経験する悲しみを。家族を助けてあげられなかった自分を責め苛み続ける苦しみを。わからない。それでも僕は、何度もその地平に立ち返り、上野さんのつかみきれない想いに手を伸ばして、心の奥のドアをそっとノックする。
忘られぬ午後2時46分、皆で祈りを捧げる。
3月11日。萱浜には上野さんと彼を慕う仲間が集まり、亡くなった方の家の跡地に縁台を作って、お坊さんにお経をあげてもらう準備をした。そうして迎えた午後2時46分、みんなで海の方角を向いて手を合わせ、目を閉じた。彼らにとっての2時46分は単なる地震発生時刻ではない。かけがえのない人の苦しみが始まった時刻だった。
地震発生直後、地元の農協に勤務していた上野さんは会社の車で自宅に駆け付けた。両親と息子の無事を確認し、会社に引き返して自分の車に乗り換えたところ、津波が来た。家族は小学校に避難すると聞いていたし、娘は小学校に残っていると安心していた。消防団員だった上野さんはそのまま救助活動に向かった。そして夕方、指定避難所の小学校に行くと、いるはずの家族はそこにいなかった。他の避難所も回ったが見つからなかった。
病院に勤務していた奥さんと再会し、事態を伝えた。妊娠中だった奥さんは避難所に残り、上野さんは萱浜に戻った。夜、懐中電灯を持ってがれき瓦礫を踏み分けたが、体のあちこちをぶつけたうえに、余震続きで避難を繰り返した。暗闇の中、車の中で夜明けを待った。海の上に漁船の灯りがポツポツ見えたのを憶えているそうだ。
3月12日早朝、自宅の側で子供3人を見つけた。隣家の兄弟だった。高校生の兄が小学生の妹を抱きしめたまま亡くなっていた。「あとで妹さんの顔を触ったんですよ。そしたら生きていると思うくらい温かかったから、触った感覚と温かさ、残ってる」。その後は歩けばすぐに誰かの亡き骸が見つかる状況だった。みんな顔見知りだった。
2012年3月11日。南相馬市萱浜の自宅そばの海で、
水面(みなも)を見つめる上野さん。
3月12日午後3時36分、東電の福島第一原発1号機が水素爆発。この時は地元の人たちはまだ残っていた。3月14日午前11時1分、3号機が水素爆発。第一原発から萱浜までは22kmしかない。ほとんどの人が避難して、残ったのは上野さんら消防団員だけとなった。放射能の影響から子供や奥さんを守るため、行方不明の家族を置いて、胸が引き裂かれる想いで避難した人たちがいた。上野さんは動ける人間が動かなければならないと思った。何より、家族を見つけなければならなかった。
「救える命があるはず」という上野さんたちの想いはじわじわくじ挫かれていく。瓦礫の中を歩くだけでも大変なのに、泥の中から行方不明者を見つけ出すのは困難を極めた。同じ場所を何度も歩き、手で慎重に探ってやっと人間の体とわかる状況だった。遺体の損傷が激しくて、最後の対面を見送った家族も多かったという。重機は一台しかなく、レンタル会社に頼んでも「放射能がつく」と貸し出しを拒否された。孤立状態に追い込まれるなか、上野さんは最愛の娘を見つけた。
警察が重機を持ってやって来たのは3月下旬頃で、自衛隊がやってきたのは震災から一か月以上経ってからだった。一回の捜索の後、彼らは別の場所に移動していってしまった。それは「あまりに遅く、あまりに早かった」。
渋谷敦志(しぶや・あつし)
1975年、大阪府生まれ。高校生のときベトナム戦争の写真を見てフォトジャーナリストを志す。London College of Printing(現ロンドン芸術大学)でフォトジャーナリズムを学ぶ。現在は東京を拠点に、世界の紛争や貧困、災害の現場で生きる人間の姿を伝えている。1999年MSFフォトジャーナリスト賞、2000年日本写真家協会展金賞、2002年コニカミノルタフォトプレミオ、2005年視点賞・第30回記念特別賞など受賞。アジアプレス所属。近著は、佐藤慧・安田菜津紀との共著『ファインダー越しの3.11』。