南相馬在住・20代男性(NPO勤務)
震災後の3月末頃から、被災地に来るようになりました。テレビだけ見て「かわいそうだ」と言っているばかりではなくて、現地に来て色々経験しようと思ったから。あと、それができる時間があったからです。
最初は相馬市に来ました。そこで、「南相馬の方で全然人が足りていない」という話を聞いて、南相馬に移動しました。当時、相馬市には日本全国からトラックが集まって、いくつもの学校の体育館が物資で山積みになっていたんです。
しかし、そこから車で30分ほどしか離れていない南相馬には、原発から30キロ圏内で交通規制も敷かれていたこともあり、ほとんど物流が止まっていたんです。現地倉庫の物資の少なさにビックリしました。それで、こちらで手伝うべきだと感じ、本格的に拠点を南相馬に移した。その時は、南相馬のボランティアセンターが立ち上がって2日後くらいだったのですが、当初はボランティアも10人くらいしかいなかった。
昔、両親の仕事の都合でスリランカにいたことがあるんですが、そこでスマトラ地震が起きたんです。その時は、現地の教会を回って、避難している人たちにカレーを作って配りました。それは、ただ両親についていって、手伝っただけなんですけど。そして、大学生の時に、阪神大震災が起こりました。被災地に行って何かしたいと強く思ったんですが、金銭的に余裕がないのと、留年のかかったテスト前だったこともあって、行けなかったんです。それが、ずっと心残りでした。
そういった経験もあって、今回の震災ではすぐに動けたんだと思います。
最初、相馬に来た理由なんですが、ガソリンを計算した結果です。「栃木県の矢板のガソリンスタンドが昼間空いている」という確かな筋からの情報があったので、矢板からフルメーターで往復できる距離を計算したら、相馬あたりまでが限界だろうと。
寝泊まりするのは車内でした。夜は、車内でもマイナス2度くらいまで気温が下がりました。でも、ガソリン使って暖房をかける余裕はなかった。だから、車内泊で寝ていても、10分おきに身震いで起きてしまうような寒さでした。ガソリンスタンドだけではなく、被災地ではあらゆる店という店が閉まっていたので、地元の人から「これ、救援物資なので配ってください」と預かっていたパンを、ひとつ食べてしまったこともあります。本当に、食料が手に入らなかった。本当に、寒さが辛かった。
南相馬に入るには、原発の30キロ圏内のラインで検問を通ります。普通に入れるんですが、検問地点で「20キロ圏内は入れません」という注意書きの紙をもらいました。事故後も、30キロ圏内に人は結構残っていました。けれども、みなさん外には全く出ていませんでした。街が、本当にゴーストタウンみたいでした。セブンイレブンも、4月に入るまで開かなかった。その上、再開後しばらくは17時まで短い営業でした。スーパーが開き始めたのは、5月に入ってから。それまで、買い物はみんな相馬市まで出ていましたね。
現在、中学生は大体6割強が、避難先から南相馬の学校に戻ってきています。小さい子どもになればなるほど、こちらに戻ってきている数は少ないです。
私自身は今、NPOの運営する施設で、子供たちに無償で勉強を教えています。最近オープンしたばかりなので、これから教育委員会・新聞に告知を出したり、各中学校を回ったりしながら、広報をしていこうと考えています。これから受験期に入ってくるから、手遅れになる前に早めに来てほしいなと思います。最近は、分数ができない中学3年生も少なくないんです。そういう子に限って、本腰入れて勉強するのが遅いから、心配ですね。
地元の塾も営業を再開していますが、自分の所は塾と競合しないように、あくまでも学習室という形式でやっていきたいです。分からないことは、その場で常駐している先生に聞けば教えてくれる、というような。成績を上げることはもちろん必要だけど、それよりもまず、生徒さんの正直な気持ちが聞けるような場所にしていきたいです。